変化するにちにち

白川静先生の漢字の世界(2017年12月)

白川静 先生のツイッター、@sizukashirakawaより抜粋、転載しています。

【 私はしばしば漢字学者として紹介される。しかし私の本心は東洋学者として紹介してほしい】
【うん、夢は持っておらんといかん。どんな場合でもね】

12/31
*京都・桂に小さな家を求め、空地に書庫を立てた。その書庫が私の仕事場である。家の前には、三歩にして尽きる小庭がある。そこが家内の遊び場である。家内は花が好きで、狭いところに、足の踏み場もないほど鉢を並べ、朝晩、一葉一花の手入れをする。狭いところだが、それがそれぞれの天地である。

*【風】は鳥形の神と考えられており、四方の方神のもとにそれぞれその風神がおり、固有の神名があった。それは神の使者として、その風土を支配し、風気を定め、風俗を左右した。目に見えぬこの神は、風雲を起こし、草葉におとずれて神のささやきを伝えるものとされていたのである。

*【おもふ】は【面ふ】、心のうちが、表面に、顔に出るという意味ですが【思】【念】以下を同じく【おもふ】とよむことによって、国語の【おもふ】という語の意味領域が【思】【念】以下の漢字のもつ意味を、すべて吸収し包摂するのです。国語のはたらきが、漢字を背景にもつことによって深化する。

12月30日
*はじめての亡命以来、二十二年の間、孔子は一つの声(※周公)と、一つの影(※陽虎)の中でくらした。それは何れも、孔子自身が作り出したものである。人は誰でもみな、そういう声を聞き、影をみながら生きる。それが何であるかを、はっきり自覚する人は少ない。

*言語とは、言霊によって攻撃し、また防禦することをいう。[詩 大雅 公劉]は都作りのことを歌う詩で「ここにおいて言々し、ここにおいて語々(ぎょぎょ)す」とあり、都とすべきその地を祓うために、地霊と問答などをする儀礼があったのであろう。

12/18
*【兄】は【祝(いのり)】を司るものであった。祝告の対象は、本来は家廟に祀られる祖霊たちである。それで【祝】は、祖霊を祭り祈るのが本義である。もとより神霊への祈りであるから、舞楽を行なうこともあって【兄】の古い字形のうちには、前に垂れた袖に領布らしい飾りをつけているものがある。

12/15
*【詠】音符は永。永は水の流れが合流して、その水脈の長いことをいう。強く長く声をのばして詩歌を歌いあげることを詠といい【うたう】の意味となる。また「詩歌を作る、よむ」の意味に用いる。わが国で、声を長く引き節をつけて詩歌を歌うことを【詠(なが)む】というのも、その意味であろう。

12月14日
*いちばん近い者が一番の敵対者になるんです。

*動物たちがその神性を棄て、愚かしい人間の知恵をもって動くこと、神的なものの媒介ではなく、人間的なものを媒介として、人間を見ること、人間を批判すること、そのありかたを否定するところに、寓話が成立する。寓話は古代専制者への批判として、それへの抵抗として生まれた。

*【作】は手のテクニックであるが【為】は手段を用いる技術的な方法である。しかしこの時代には、なおそのような人力と技術の他に、神意の協力を必要とした。それが【造】であった。【作】【為】【造】はいわば三位一体的な、古代技術の方法を示す語である。

12月11日
山の斜面にいっぱい銅器を貼りつけるということは、わが国の出雲でも何箇所か出てまいります。銅鐸をずらっと並べる、あるいは鏃をいっぱい並べてある。殷でも、寧郷のあたりで、青銅器の中に斧を二百本ぐらい入れたのがあるんですが、出雲に出てくるのと同じやり方です。

12月10日
上寿なるものは百二、三十歳とあり、本当の天寿は百二十歳と申します。中寿が百歳、八十歳が下寿、一番下の年寄り、私はまだ九十一歳、この四月に九十二歳になりますけれども、まだまだ中寿まで、間があるのです。勿論老人というふうには自分では思っておりません。

12/7
*【鹿】を神獣とする観念は殷周のとき以来のことであるが、ただ漢以後の【麟】の図様には、羽翼を加えて羽翼獣とする観念があり、これは西方の天馬など神獣の観念と合して生れたものと思われる。

12/4
*京都・桂に小さな家を求め、空地に書庫を立てた。その書庫が私の仕事場である。家の前には、三歩にして尽きる小庭がある。そこが家内の遊び場である。家内は花が好きで、狭いところに、足の踏み場もないほど鉢を並べ、朝晩、一葉一花の手入れをする。狭いところだが、それがそれぞれの天地である。

12/2
*【いのち(命)】「生の靈(いのち)」の意であろう。【い】は【生き】【息吹き】の【い】。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する概念で、spiritやanimalはみな「いきをするもの」を意味した。

12/1
*否定の記号である【×】は、単純な否定に終わるものではなく、死を通して復活することの記号的象徴である。そこに一種の美学があった。【文・爽・爾】の諸字がもつ美意識的な賦彩のうちには、いずれもあふれるような生命感をただよわせている。それは古代の、みごとな巫術的秘儀の象徴である。