変化するにちにち

「日の班にまみるる」(2)

歌のことは書きようがない。合唱の録音を聞いて毎回毎回、〈来週こそは身体をもっと意識して〉と思う。2回出るので、火曜日朝は録音しないことにした。聞いてしまったら、夜も行こうという気持ちを消滅に追いやりかねない(…)。夜の録音を聞いてみる。ハイ、これ以上書くのは精神上よくないです。

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《かなしみに溺れきれねば葉桜の陰を来たりて日の斑にまみるる》(米田登『時空界面』より)

米田登先生の歌を思い出す。このような「場」「時」は、ちょっとした非日常で、人に必要なものだ。思いの深さにもちろん雲泥の差はあっても、きっと米田先生も葉桜の「日の斑にまみ」れつつ、静まってゆく内面を感じておられたに違いない(訂正:これでは単純すぎる)
「かなしみに溺れきれねば」がみずみずしさを宿す。

見ているだけで落ち着く、異空間のよう。思えば不思議。

風に樹の葉が応じている。身体がシンクロしそう。人もこのように自在に風に揺らげたら気持ちよいだろうな、童話になる。

あ!物理的に揺らがなくても、「日の班にまみるる」なかで自分の内部へ向かい、大変なときでも、癒しに似たものも感じられるはず、それが、「そよぐ」ということなのかも知れない。人も、光に風にこころは戦いでいるのだ。

絶えず動いている模様。土に来る光、アスファルトに来る光、写真で見ても柔らかさが違うような気がする。