変化するにちにち

「音なふ」について

「音なふ」は「訪う」の掛詞かと聞かれたことがある。外れてはいないが気持ちが大きく違う。
そよぐ樹の葉が言の葉として感じられるのは夏の終わり、特にお盆過ぎの風立ちはじめる頃。この頃の樹の葉擦れは何か特別である。

物心ついた時から8月ほど特別な月はなかったし、今でもお盆過ぎに立ちはじめる秋風は特別で、音か声か区別つかぬほどの不思議さに立ち止まったりする。自分の変化を残したいと思いブログを立ち上げようと題をあれこれ考えているうちに白川静の「音なひ」「音なふ」に出会った。

ブロック体太文字は、白川 静著「中国古代の文化」(219頁〜221頁)(講談社学術文庫)より

「音はたしかに言を基本形とし、[略]」

「音は、人の声ではなく、自然の声をいうのが原義であった。わが国でも、[略]」

「『風の聲(おと)』『川の音』は[略]みな自然の音声を、その『音なひ』として聞くことで、「音」とその訓としての「おと」は、語の原義においてもまさに対応しているのである。」

「音はこのように神秘であるゆえに、神人を和するものとされた。またあらゆるものは、音を通じて一体化し、同じ次元に立つことができた。」

何回読んでも難しいが分からぬなりにも伝わりくる感動は大きく「音なふ」とした。言葉を発するのは私でも、同時に意思を超えたところから、言葉のほうからこちらにやって来ることもあるという経験に「音なふ」はふさわしく思える。年の初めにもういちど自己確認をしておきたかった。