『身体巡礼』は2,3年前から手元に置いているが、読み終わったのは今年の5月に入ってからかもしれない。濃縮された文体で、最初はさっぱりわからなかった。
それでも「面白い」が伝わる。読んでは捨て置き、また思い出しては少し読むがつづいた。最近は、文体が歯切れよいと感じるまでになった。
これからもまだまだ繰り返し、噛みしめながら読める本だ。とは言っても、いちばん興味のあるところがどうしてもわからない。
シューベルト『美しき水車小屋の娘』に言及するところだ。この本では2箇所に出てくる。
理髪師は外科医の前身である。英国では内科医の称号はドクターだが、外科医の称号は本来はミスターである。産婆、ペディキュア師も同様の扱いになる。「身体という自然」を直接に扱う職業は、私の定義する脳化社会では賤民となる。阿部謹也によれば、その範疇(はんちゅう)はさらに広く、「自然の力を利用する」職業もまたそれに準ずる。だから『美しき水車小屋の娘』(水車小屋の製粉業の娘への若者の悲恋を描いたシューベルトの歌曲)なのである (24頁)。
欧州の場合には、都市住民の文化と、森の住民の文化は、ほとんど決定的に断絶している。都会人は森の人を人と見なさなかったのであろう。それは欧州の被差別問題によく示されている。その境界がどこに位置するかというなら、自然の力を借りて生業を営むのは、都市に住んでいても、むしろ被差別民に属した。だから「美しき水車小屋の娘」なのである(189頁)。
「だから」をどう受け取ればよいのか。娘が「狩人」選んだのは、社会的地位が高いからという理由なのだろうか。
今は「わからないこと」として、このまま置いておくしかない。しかしあれこれ考えるうちに、次に読みたい本が見つかった。
それはこの本で何箇所か触れてある、阿部謹也(あべきんや)『中世賤民の宇宙』(筑摩書房)。
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