原因は漢詩。李白の詩で、阿倍仲麻呂を悼む「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭す」というのがある。詩自体は難しくないないけど、日本語訳になった途端にややこしくなっている(している)。
短歌を詠む人の解釈ならきっとすんなり行くよ!と思うのに、こじつけ、無理矢理、なんで?と受け入れ難い(あー、全然説明になっていない)。言葉にならないまま何日も続いた。
気分転換に内田樹の『私の身体は頭がいい』を読み、借りてきた橋本治の『「わからない」という方法』も読んでいた。両方とも白い紙のカバーをつけている。
ああ、橋本治も合気道やっていたのか、ふーん、それにしても言ってることが似ている、内田樹にそっくり。否、『私の身体は頭がいい』のタイトルは橋本治の言葉から取っている・・・内田樹って橋本治の影響どころかなんだかそっくりなの、おかしい・・・
おかしい、ん?見たら内田樹の本だった。朦朧状態。
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阿倍仲麻呂
《 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも 》
李白
日本晁卿辭帝都,
征帆一片遶蓬壺,
明月不歸沈碧海,
白雲愁色滿蒼梧。
トリアエズココマデ(…)