故白川静先生のツイッター@sizukasirakawaより抜粋して転載しています。
6/28
*旅行くときに「隈も置かず」[万九四二]、「隈も落ちず」[万二五]思いつつ行くという表現が多いのは、そこがただ曲折の場所であるというだけでなく、道ゆく人の思いの残るところとされるからであろう。【峠(たむけ)】と同じ意味をもつところである。
*識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。【道】とは、その俘馘の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。
*山の斜面にいっぱい銅器を貼りつけるということは、わが国の出雲でも何箇所か出てまいります。銅鐸をずらっと並べる、あるいは鏃をいっぱい並べてある。殷でも、寧郷のあたりで、青銅器の中に斧を二百本ぐらい入れたのがあるんですが、出雲に出てくるのと同じやり方です。
6/24
*手書きの文字は、また自己の一部である。それは脳細胞に直結した指先を通じて、指先の感触と視覚が結び合うところに、ひとつの軌迹として生まれる。文字に逍遥することも、そのような世界のことである。今後もなお、私と同じように、このような文字の世界に遊ぶ人があるのであろうか。
*【尋】左と右とに従う。左右の両字を上下に組み合わせた形。左右は神を祀るときの動作を示す字で、左には呪具の工をもち、右には祝禱を収める器をもち、左右の手でたどりながら、神の所在を尋ねることを【尋】という。
6/22
*【ね】は鳴くものの声を有意的なものとして聞きとることである。日本人の脳室にその機能があるとされるが、【音】【鳴】もまた、ひびきや音を有意的なものとして、神意の示すところを聞きとることを本義とする字であった
*国語は漢字の多様性を通じて語義を拡大し、また多数の同訓異字をもつことによって、その字義を自己に収斂する。
6/20
*人は他の人物を論じながら、しばしば多くみずからを語るものである。
*学問の世界でも、忠実な紹述者ばかりでは、何ごとにも発展はない。論難答問があって、はじめて展開がある。その論難答問を認めないような、権威主義の横行を許してはならない。【狂】とは、まずそのような権威を否定する精神である。そしてその否定を通じて、新しい発展をもたらす理性が生まれる。
6/17
*【こころ】五臓の一としての心臓をいう。感情の動きによって強い衝撃を受けるところであるから、そのような精神作用をもつ場所と考えられて、知情意のすべての作用がここにあるとされた。表面にあらわれるものの根元のところであるから、国語では【うら】という。
6/15
*【ひとつ】が【ふたつ】になるのは何か。【ふ】というのは【振(ふ)ゆ】という【振(ふる)う】という言葉がありまして「みたまの振ゆ」というように使うのです。これには振動するという意味がありまして、振動する、動く物、複数的になるというような意味が、多分【ふ】にあるのであろうと思う。
6/11
*周の時代になりますと、王室の后は必ず川べりに機織殿(はたおりどの)を作って、その周辺に桑を育てて蚕を飼います。その習俗は今もわが国の皇室に受け継がれているのです。三千数百年にわたって、そういう親蚕(しんさん)の礼というものが行なわれている。
6/10
*名を知られることはその実体を支配されるおそれのあるものとして、容易に名を明かさぬ習俗があり、また実名を敬避する俗があった。実名を【いみな】よび名を【あざな】という。名をいうことは、男に対しては女が許すことであり、長上に対しては一種の服属儀礼を意味した。
6/8
【いのち(命)】「生の靈(いのち)」の意であろう。【い】は【生き】【息吹き】の【い】。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する概念で、spiritやanimalはみな「いきをするもの」を意味した。
6/6
*【ことば】は、古くは【こと】といわれた。【こと】とは【殊(こと)】であり【異(こと)】である。全体を意味する【もの】に対して、それは特殊なもの、個別を意味する。存在するものが、それぞれの個別性、具体性においてあらわれるとき、それは【こと】であり、【ことば】であった。
*地上と高天原を連ねる梯は、高木の神のように神格化された木であった。神は柱で示されたので一柱二柱という。天上には神々がおり、地は天に対して存在する。それで神の降り立つところには獣を犠牲として供え、社を設けた。高梯と犠牲と社と、この三者を組み合わせたものが【墜】すなわち【地】である。
6/5
*たしかに、はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかしことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。
6/5
*【道】はもと神の通路であった。その【道】が王の支配に帰したとき、神の世界は終わった。王がそのような支配を成就しえた根拠は、神に代わるべき【徳】をもつとされたからである。しかし【徳】は人によって実現されるものである。神の【道】と人の【徳】とは、本来はその次元を異にするものであった。
6/2
*ねがわくは【平】も【成】も、その字の初義のままに、【平】は手斧の素朴さを、【成】は神かけて祈るつつましさを、いつまでも保ちつづけてほしい。これらの字を、再び戦争のための字に用いることのないようにねがうのである。(平成元年八月・新元号雑感)
6/1
*【もののふ(物部・武士)】朝廷に仕える文武百官をいう。のち武を職分とするものの意となり【もの】とは兵器をいう。最も古い時代には物とは霊物であり【ものしり】とは霊界の消息に通ずるもの、【もののふ】とはもと邪霊を祓うことを掌る部曲の意であった。そのことを掌る氏族を【もののべ】という。
*【つきこもり(晦)】月の末日。月の光が消えてなくなる日をいう。のちの【つごもり】にあたる。その見えはじめるときを【月立ち】、のち【ついたち】という。十二月は特に【おほつごもり】といい、その日に祖先の霊を迎え、「みたまの飯(いひ)」を供えて祭ることが行なわれた。
*地球は、この僅か百年ほどの間に、著しくその相貌を変えた。現代の人は、儵(しゅく)と忽とのように、その眼を穿ち、その鼻を穿ち、地球は今異常な息吹をしているようである。