白川静先生の漢字の世界

漢字の世界(5月)*白川静@sizukashirakawaより

白川静先生ののツイッターより抜きとって掲載しています。

5/31
*みそぎは、海辺で行なわれるのがもっとも祓いとして効果があるとされ、山間の祭事にも、「浜下り」したり、また社殿の近くに白沙をもって、潮花を用いたり、すべて清めには塩を用いる習俗を生んだ。

5/30
*【社】は[万葉]の借訓に【社(こそ)】とよむことが多く、【こそ】は[記、応神]「比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)」[垂仁紀二年]「比賣碁曽」[肥前風土記]「姫社(ひめこそ)の郷」はみな韓国渡来の神である。

*山遊び、川遊び、鳥遊びのように、【遊】とは古く神事の意であったらしく、これを人の行為に移していうとき、国見、山見、花見のようにいうのであろう。遊ぶというとき、その主体は神であるが、人のときにはその自然は対象化される。対象化するのは、その魂振りのためである。

5/27
*凡そ利のあるところに、人々は蟻の如くに集まり、利を求めては山を崩し海を埋め、地の理を絶って顧ることがない。宇宙の秩序である天文に對して、地上の秩序を地理という。地理とは人に譬えればその血脈の如きものである。その理を失って、大地の生命が健康であるはずはない。

5/26
*【醫】の基本字は【医】であり、それは【匚】で示される秘密の場所、おそらくは洞窟のようなところで呪矢を用いて祈ることを示す字である。その場所で若いシャーマンの巫女が祈るのを【匿】という。その祈りには霊を慝き寄せる力があるのであろう。すなわち【匿】とは「匿(かく)れたる祈り」である。

*許慎の誤りは、古を解するに今を以てするというところにあった。古代文字の世界に導入することを拒むものは、常にこの「今を以て古を解する」という誤った方法にある。もし「古を以て古を解する」という方法論的用意を以て臨むならば、古代の世界は整然として目前にその躍動する姿態を現わすであろう。

5/24
*人々はみな神のみ名において争い、戦っているが、それは本当の神ではない。神とは名のないものである。唯一にして無辺際であるゆえに、名づけがたいものである。無名は天地のはじめ、その天地のはじめに帰る以外に、現在を救済する道はない。

5/22
*この講話(文字講話)をやろうと提案したときには、私は八十八歳でした。主催の文字文化研究所の理事たちがみんな笑ってね、「大丈夫ですか」と(笑)。私は「これは神様に約束をするんで、あなたたちに約束するんではない。神様に約束すれば、神様はわかっていただける」と答えました。

5/19
*【書】とは呪禁として用いる文字、祝詞をいう。文字には呪能があり、祝詞のもつことだま的な力は、ここに安定的に宿るものとされた。文字はことだまをその形のうちに定着させる力をもつと考えられたのである。

*青銅器の原質は、神の器たることにあった。神の姿を表現することは容易ではないが、神の存在を示す方法はそれほど困難ではない。すなわち「坐(いま)すが如く」すればよいのである。神の器を供えることによって、神はそこに降臨するはずである。

5/14
*山遊び、川遊び、鳥遊びのように、【遊】とは古く神事の意であったらしく、これを人の行為に移していうとき、国見、山見、花見のようにいうのであろう。遊ぶというとき、その主体は神であるが、人のときにはその自然は対象化される。対象化するのは、その魂振りのためである。

5/10
*ことばは手段にすぎない。しかしその手段にすぎないことばをはなれて、道を説くことができるであろうか。無限定なる道を説くには、概念の限定をこえなければならない。その概念を拒否する表現の手段が、寓言である。虚のみが、実をあらわしうるのである。

5/3
*愚かしい戦争であった。まことに世界の戦史に類例をみないような、愚かしい戦争であった。