目覚めたとき、もう自分の身体に戻ったと実感。昨日はまだ恐々だったが今日はまったく違う。これほど身体感覚が違うとは、そして鼻水は出ても、爽快!
朝ごはんのとき母が急に、「きゅはなんちが(今日は何日か)」と聞く、わたしは無言。なぜなら今日は16日、しまったと気づいたが遅い。カレンダーを見て母が確認する。カレンダーには薬が貼り付けてあるので、薬を飲み終わっている日が昨日だと、母は分かっている。
「えー、こらきゅは親鸞さまの日じゃらい!精進のせにゃ!味噌しゅら吸わん!(あら、今日は親鸞さまの命日、味噌汁は要らない……)」
と味噌汁を拒否。「んーにゃ!昆布の出汁い、ちーっと、いお(魚)を入れだばっかいじゃったっで食ゎんけ」と私。
しばらくして母は手を付けていた。一年前だったら頑として受けつけなかったに違いない、これが歳をとるということかも。私も〈かっごんほがじゃった(不覚だった)〉、いつもは昆布しか入れないのだけど、道の駅で鰯の削節を見つけてついつい使ってしまった。
朝食後しばらくして、「さあ、良が天気じゃっで墓げ行っど!、Yさんな何時頃ござっどいろ?鎌を持って行っぞ、花を切らにゃいがんで」と言う。墓の花は造花にしたと説明すると、「え、造花じゃったが、そら良がった」。
墓への道沿いの川、ぶっごろ(川の魚?)も写っとったいどん(タップすれば、なんとかぶっごろが見えます、たぶん)。山が写っている側に何匹も見えます。
こまんか頃(小さい頃)、この川で水浴びをした。今より深い所は3メートル近くあった。、道から飛び込みもできた。⬇️
昔は自然の石段で、大きな岩もあって洗濯をした。⬇️
元屋敷で一休み、朝は気持ち良い。⬇️
92歳で杖を拒否して、手を添えられるのも拒み、土手、草につかまって墓まで上る。
墓には、近所の電動車に乗るYおばさんが来ている。暑くて私が腕まくりすると、見ていた電動車に乗るYおばんが、
Yおばん「ゆっこちゃん、まちった飯しょぎしとくゎにゃ、手はおっほるちすっ!」
(おっほるっ→折れるの強調、二回目は「うっぐゎるっちすっ!」と言われた)
母「Yさんな、いっこござれん」
Yおばん「Yさんな、早よして、も、飲ませでち戻らいだっじゃっど、墓が濡れどっで」
母「さしかぶいで語いえだな、おまいども」
Yおばん「はい、こんよが日和で語いびよいじゃった、まごで」
Yおばん「おちゃっかごだいどん、配いもんも、よいなごっじゃっど」
(おちゃっか→横着)(Yおばんは83歳で市報を配る係、今朝は墓に行く直前に、赤い羽根募金の徴収にも電動車でみえた。)
母「銭のぎしともろっくらっで、ゆごだゆだいどん、堪忍してくいやいち思どっとお」
Yおばん「よがっじゃいが、そんふい思えばなってくっで」と、亡くなったそれぞれの夫の遺族年金の話の繰り返し。
(成ってくる、成り立つ?上手い訳が見つからない)
Mさん登場、「Mさん、おまいも飲ませげしたげ」と、三人で話がまだまだ続く。
1時間半は座り込んでいた。しかし地元に、地に足をつけて暮らしている人でないと使えない、すでに廃れたかのような方言を懐かしみながらの心地好い《時光》。
下りる⬇️
こまんか石は田の神様(かんさん)⬇️
こまんか頃は、「ペコロスの陽だまりの時間」では「細んか頃」と書いてあるが、「小んか」と当てるのでは、と疑問に思う。何故なら、「小んか(ちんか)頃」の言い方もある、それがあるからこそ「細んか」である?両方あり?など考えればきりがない、深みにはまる。こういうことに詳しい人も多いのだろうけど。
方言にからだが慣れてしまって、共通語とやらに訳すのは要気力!今それにエネルギーを使う余裕なしの状態です。
ここまでお読みくださりありがとうございます! 感謝いたします。
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