変化するにちにち

エトス(行為様式)が「生きる」「死ぬ」を支える

今年になって東京新聞に読み応えあり!と言っても1/6夕刊に内田樹氏、1/8夕刊は釈徹宗氏が登場。それだけですが私にとってはすごいこと!です。それぞれ紙面1頁の半分弱を占める。早速図書館に行って釈氏の本を借りてきた。(大平光代氏との対談本『この世を仏教で生きる』本願寺出版社)

1/9のブログ「言葉に助けられるとき」で書いた「母の言葉で突然『根っこ』を断ち切られたような不安定の中で、故郷の思い出を追体験する事で生きていた」ことと、釈徹宗氏の語るエトス(行為様式)についての言葉がほぼ完璧に重なった。
⚫︎「『根っこ』というのはエトスの問題だと思うのです」、「エトスは『生きる』『死ぬ』ということを根底から支えてくれます」、「幼い頃からいつの間にか積み重ねられた行為様式が生きる軸となるのです。」(27頁)
⚫︎「ぎりぎりのピンチで頼りになるのは、意外と行為様式だったりするんです。」、「絶体絶命のときに頼りになったりするんです。」(122,123頁)

当時そういうことも何も知らなかったことを思うと、人間はぎりぎりの状態にあるとき本能、直感力が最大限に働くのではないか、行為様式が生きる支え、力になることを人は潜在的に知っているのではないかと改めて感じる。

内田樹著『街場の戦争論』の1行とつながる
何日かして突然、『街場の戦争論』の1行とつながった。「景観を軽んじることはできません。人間の心も身体も景観によって作られているからです」(39頁)。あまりピンと来ないまま、それでもとんでもなく大切なことである気がして去年からずっと温めていた1行が実感を伴って重なった。こういうことがあるのだ!

ようやく快晴!
3つのことが実感を伴い結びついて何だか感無量状態の中でずっとぼんやりしていた。釈氏の語る生きる軸としての「行為様式」と、20年前の自分の生きる軸が故郷を追体験する行為だったこと、そして敬愛する内田樹先生の言葉とつながったことなどを早く言葉にしたかったが、高揚感が勝ってぼんやりした状態が今日まで何日も続いていた。ようやく快晴!

東京新聞について言えば「続・ペコロスの母に会いに行く」の隣には壇蜜さんのコラムもある。その言葉遣いから受けるのは勇気のある人という印象。美しさ?色っぽさ?を壊しかねないような「チキショウ!」という言葉があった(先週)。大好きになった(単純か)。