変化するにちにち, 歌う

書くこと、言葉に自分が見える

言葉が溢れ出る瞬間
身体から湧き出る言葉によって、考え方生き方までも変わり得ると実感している。

短歌を作るとき懸命に言葉に向き合って数時間経ち、もうこれ以上集中出来ないと思って気分転換に買い物に出かけたり、お風呂に入ったり、または料理などをしていると言葉が溢れ出る、波のように押し寄せる瞬間がある。身体の中に無意識としてあったものが時を得て出てくるのだろうか。

そのような身体から出てくる言葉は静かで心に自然に添う。その言葉によって、私はこんな風に考えているんだ、この様な捉え方をすればよいのだと前向きに元気になったりする。誰かが使ったであろう言葉も身体のなかで眠っている間に熟成され「私」の言葉として生まれ出る。

それらを再び噛み締めて吸収し、徐々に自己変革できるのかもしれない。言葉によって育てられる。そのような言葉の魅力を感じはじめている。

自分と向き合うことが苦しかったのだろうか
「ただごと歌」と言って何でも短歌にする今である。二十歳の多感なときに始めた私は短歌は「生きる」苦痛を書くものと思い込んでいた。

作品を作るためには自分の心の有りようと向き合わねばならず苦しかった。それを理由に欠詠を繰り返し、何年も全く作らなかったりした。

それでも辞めず来たのは、その魅力を体感していたからに違いない、そしてまた現実に収まりきれない自分、居心地の悪さを感じていた自分を知っていたからでもあろう。

それでも胃が痛く、締切日の迫るストレスに、書くことを捨てたらどんなに楽しい人生だろうとも考えた。しかし捨てることはできなかった。

現実では「変わっている」と言われ、短歌の世界では「変わっている、個性的だ」と褒めてもらえる批評会、歌会は非常に居心地がよかった。褒められることは私にとって、もしかして初めての体験であったかも知れない。

今、推敲し言葉に浸ることが楽しい。
締め切りも何もないからかも知れないが、何よりも自由である事が大きい。「色々な手段でブログの読者を増やしましょう」のようなものもあるが、それは正直したくない。

毎日、または二三日に一回書いていて、必ず一人は読んでくださる方がいらっしゃる。いや最近は二人以上いらっしゃる。見知らぬ人かもしれない。それがものすごく不思議で嬉しい。

最近思うのは師のこと
多く詠みなさい、なりふり構わず詠みなさい、続けなさいと繰り返し仰って下さる師に反抗もした。締め切り日を守れず、また思いばかりが先立ってなかなか表現力が追いつかぬ不肖の弟子を見守って下さった師が今本当に有難く感謝の念が溢れ出る。その師もあと数年で90歳を迎えられる。大切な師!感無量である。