変化するにちにち

中国人の友と連絡取れる!

日本で言えばLINE?中国版、微信(ウェイシン)を夫がやっている。その繋がりで懐かしき友に送信した。すぐに返事が来たのでブログのことを伝えたら「拝読」(何たる敬語!)と返ってきた。このブログを立ち上げたい時(最初gooブログでひと月ほど書いていた)、どうしても《體感時光》を使いたくて彼女にこの中国語としておかしくないかと(日本語で)メールしたが通じなかった。彼女は日本にいる時、また中国でも村上春樹を読んでいると聞いた記憶がある。それより何より、不思議に気が合うのだ。何回かしか日本では会ってないしそんなに話もしていないが、中国に帰国する前に千鳥ヶ淵に二人でお花見に行った。お昼を新宿で食べて、私は夜合唱があったので彼女とは夕方までしかいられなかった。今唯一の後悔は夜ご飯も一緒に食べればよかったぁ~、ということ。後悔することって滅多にないが、今その事を思う。楽しいゆったりした一日だった。
ブログに話を戻せば、早く立ち上げないと日々の思いが消えていくようで、意を決し間違いでも何でもエイヤッと使ってしまった。このブログに移った時、《時光》だけにした。そのほうがしつこくなくて気に入ってる。《時光》、なんと大らかで美しい言葉だろう。ただ《時》でなく、《時の光》で時間を意味すると言ってしまえばそれまでだが、《時光》の持つ広がり、そこに確かに光が存在する。
今朝の一時間のみのボランティア
今日で5回目。年を重ねた方の言葉が重かった。一人暮らしという方の話が聞こえてきた。「心を強くしていないと生きていけないですよ」と誰かに話す声に言葉に力が籠っていた。嫌みなく自然に響き身体に染み入った。その方のところに行って握手、というより手をじっと握っていてあげたい気持ちだったがまだ慣れていないので勇気がなかった。わが母は91歳で一人暮らし、母がそれを望んでいる。「有り難い人生だった」ともう何年も前からこの言葉を過去形で話すようになった。しかし母から一人暮らしの孤独については聞いたことはない。言わないのかも知れない。きっと子どもには言わないのであろう。
よい一日であった。