変化するにちにち

村上春樹「アイロンのある風景」「タイランド」

時々思い出しては村上春樹を読む。心が騒がしい時などに読む事もある。途中で不安感に襲われたりする。しかし、どれもこれも「生きる」ことに直結していて読み終わると必ずものを思わされ、身体は静かになる。『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)をここ数日読んでいる。村上がサリンジャーを「訳したかった」気持ちがこの本を読んで少し分かった気がする。「フラニーとゾーイー」の心理的世界が私には感じられる。うまく言えないが、発した言葉と、受け取られる言葉のズレの様なものだろうか?兎に角何かもどかしい感覚。

「アイロンのある風景」は如何様にも解釈できる気がする。が、「火」を語る言葉がそのまま読み手に静かに入って来るし、死への向かい方が自然であると感じられる。「タイランド」は衝撃!内容も然りながら、言葉を紡ぎ出す、生み出す書き手である村上春樹の精神を思わずにはいられない。「あなたの身体の中には石が入っている」「石には字が書いてある」「それは古いものなので、あなたはきっと、長年にわたってそれを抱えて生きてきたのでしょう。あなたはその石をどこかに捨てなければなりません」等々まだまだ「石」は出て来る。(まだまだ書きたいが今日はここまで)

どうして私はここで石に惹かれたのか
六月に「ゲシュタルト療法」というセラピーを4,5回受けた時、身体の中の石ころをコロコロではなく、ゴロゴロ吐き出している感覚があった。私にとって「石」とは正に「長年にわたって抱えて生きてきた」もの。母への怒りの塊そのものであった。石を抱え込んでいることにも気づかずにきた。今年三月、母の介護のため病院で寝泊まり介護をひと月した。それを機にその「石」が一気に動き出して怒りとなった。呼吸が苦しくなる程だった。

昨夜、合唱の合同練習に言った。電車での往復に「タイランド」を読みながら、石と表現した村上春樹の身体性、精神などを思った。小説家としてどれほどの苦しみをもってこれらの言葉を紡ぎだしたのか想像なんてできない。ますます彼の作品に惹かれる。