変化するにちにち

時の光 10年前の私に出会う

第一歌集『潮は胸の辺りまで』を出してからもうすぐ15年!その後の歌はまったく整理せず棚に積んだままの本を取り出して自分のだけ切り取ってみた(それ以上はする気力なし)。懐かしい題があった。2005年の歌で題は「時の光」中国語の時光(shi guang)を日本語になるように「の」を入れて「時の光」とした。歌に添えた文章もあった。ああ私はこんなことを考えていたのかとなんだか自分がいとおしい。

エッセー 2005年「好日」4月号より
意識を飛び越えて言葉が出て来たりする。〈北風のの東京快晴みずうみとなりたる空を舟渡りゆく〉先月、自作ながら何が言いたいのか分からず弄くっているうちに〈空の向こう岸まで〉となってしまった。それでも意味がはっきりしない。空一面の快晴の意味と自分に押し付けた。2ヶ月に1度の歌会を待っているうちにどうでもよく思えたり、相当に頭がおかしいのではと不安になったり。好日の東京在住、常に酸素不足の感。今月も喘いだ。

今年、多くのことを経て溢れるような思いを何とかブログに残したいと思い、考えて考えてふっと湧きあがってきた言葉「時光」、そこに骨の豊かな人のイメージの旧字体・體を使って「體感時光」とした思い入れのある言葉。10年前も使っていたのかと思うとじんわりとして感動的である。だがしかし、この中国語が正しいのかは分からない。エッセーには歌詠みとして言葉と格闘する健気?な自分が見える、いじっているうちにとんでもない所に着地したり、予期せぬ言葉が湧いたり、それらの言葉によってまた私が変わる、推敲の苦しみ楽しみもまた至福の「時光」であるかもしれない。