兄の百箇日。方言では〈ひゃっかにっ〉。まだ100日しか経っていない。ふとなんか、ふたなんか、みなんか、よなんか、………、しーじゅくんち(四十九日)、ひゃっかにっ、祖父の声と重なる。ただ花を供えるだけであっても、小さい頃とつながる。
亡くなったら昔の人は丁寧に法事をしていたのだ。それは少なくともわたしにとっては、精神の落ち着きにつながるように思う。こういう事を重ねて行きながら少しずつ慣れ、受け入れるのだろうか。
短歌の推敲をしていて「亡き兄」という言葉が無意識に出た。助詞を付けると5拍になるので使った。でも「亡き兄」と書いたその時点で気持ちが薄らいでしまう、自分の言葉ではない、まだ内面と一致しないという違和感、拒むような身体感覚が強くあった。
そういう言葉がなぜ、突然出てしまったのか不思議。短歌のリズムに都合の良い言葉、そういうものに慣れすぎたのかもしれない。