同窓生のKaさんが「おまや(あなたは)お寺いにゃ行かんけ(お寺には行きませんか)」と前日に誘ってくれる。
母は、「えー、そら良がった、あげめはおや名前をけで持って行だっくれね(お布施は私の名を書いて持って行ってください)、しないの先生にゃ、いっぺお世話いなっとったっで(尻無の先生には、いっぱいお世話になっているから)」と喜ぶ。
「彼岸どんじゃっで(彼岸さまだから)、行がにゃいがんち思どった(行かないといけないと思っていた)」とまことしやかな母の言葉。
線路沿いを大昭寺まで歩いて、山を越えて證海寺へ。この地域には同じ宗派のお寺が2つあり、それ以外のお寺はない。隠れ念仏の地であったことと関係あるのかなあ?
受付に同級生のKoくんが座っている、去年の同窓会以来だ。従姉妹も来ている。まず正信偈を上げる。そのあと聴聞が10分の休憩を挟んで2時間ほど。
休憩中に「あのふた、あがさごの人じゃっど(あの方は長迫の人だよ)」と従姉妹が教えてくれる。祖父、母をご存知かもしれない、挨拶に行って祖父、母の名を告げる。「母ちゃんな元気しとらっけ(お母さんは元気にしていらっしゃいますか)、ゆうお寺いも来おらいじゃっどんな(よくお寺にも来ておられたんですけどね)」。
親世代の方の言葉は心地好い。ここのお寺は今日は3,40人、もっと多かったかもしれない。小さいころの、おじいさんおばあさんたちが聴聞しながら、相槌を打ちながら大きく笑っていた、その頃を感じさせる寺の賑わいがあって和やかな空間にたっぷり身を置く。
お寺からの帰り道、田にはれんげが咲いている、雨まじりの天気。
1週間前の、美山の身体感覚のままでの落ち着きのない自分と、今の、ここの空気に浸かりきっている感覚の違いがはっきりしていて面白い。身体は不思議、不可思議そのもの、死ぬまで付き合っていけるもう1つの(この言いかたが相応しいかどうかは分からないけど)わたし。
山、川と身を一つにして生きているような、滅多に味わえないひととき。
コメントを投稿するにはログインしてください。