白川静先生の漢字の世界

白川静先生の漢字の世界(11月)

白川静先生@sizukashirakawaより抜粋しています。

11/30
*わが国の古代においては、語の禁忌は甚だ厳重なものであったらしく、「言に出でて云はば忌(ゆゆ)しみ」[万二二七五]、「言の禁(いみ)も無くありこそと」[万三二八四]のように、その信仰にふれる表現が多い。それでわが国を「言霊の幸はふ國」という。

11/29
*人がはじめて霊的な感覚にめざめたとき、すべての自然物はみな霊的なものであった。「草木すら言問ふ」という時代であった。そのなかで別けても鳥は、霊的なものであった。典型的には、渡り鳥の生態が最も神秘に満ちたものであった。それは霊の来往を示すものと考えられたのである。

11/28
*わが国では、高天原と下界の根の国は高木によって連なっており、その木は高木神とよばれる神であった。伊勢神宮には、丸木に足がかりを削った神梯がある。それがおそらく、天照大神とともにその名のみえる高木神の原型であろう。

*人はその不可知なるがゆえに、自然を渾沌とよぶ。しかし渾沌はその自らのうちに、絶妙な条理をもち、秩序をもっている。そのゆえに、四時は整然としてめぐり、万物も生育してその繁栄を楽しむことができる。

11/24
*渾沌とは、カオスである。この東西のことばは、その根本の概念において同じであるが、ただ一つ異なるところがある。それはカオスが、その原義において「口をあいている無底真闇のうつろなる空間」とされるのに対して、渾沌は眼も口もない実体そのものであるということである。

11/23
*【ことば】は、古くは【こと】といわれた。【こと】とは【殊(こと)】であり【異(こと)】である。全体を意味する【もの】に対して、それは特殊なもの、個別を意味する。存在するものが、それぞれの個別性、具体性においてあらわれるとき、それは【こと】であり、【ことば】であった。

11/20
*【すぎ(杉)】木の名。常緑針葉の高木。わが国では神木として、神依りの木とされた。【直(すぐ)】なる木の意であろうとされる。

*古い時代の青銅器は、お祭りに使うと同時に、四方の異族の神々を追い払う、邪霊を追い払う力があるものとして、辺境に配置された。人もいないような辺境の、秘境の地に配置されているのです。

11/18
*はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかしことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。

*【むれ(山)】山をいう。朝鮮語に由来する語。[神功紀四十九年]「千熊長彦と百済の王とのみ、百済国に至りて、辟支山(へきのむれ)に登りて盟ふ。復古沙山(またこさのむれ)に登りて、ともに磐石の上に居り」のように、百済の山名にその訓がみえる。わが国でも牟礼山という重複名が残されている。

11/16
*【歌】系統の字源は【可】にまで遡り、【可】とは祝詞を示す【口(サイ)】を木の【柯(えだ)】で【呵(か)】して、神に向かってその実現を呵責する意、その祈りが【歌】である。

*旅行くときに「隈も置かず」[万九四二]、「隈も落ちず」[万二五]思いつつ行くという表現が多いのは、そこがただ曲折の場所であるというだけでなく、道ゆく人の思いの残るところとされるからであろう。【峠(たむけ)】と同じ意味をもつところである。

11/12
*【社】は[万葉]の借訓に【社(こそ)】とよむことが多く、【こそ】は[記、応神]「比賣碁曽社(ひめごそのやしろ)」[垂仁紀二年]「比賣碁曽」[肥前風土記]「姫社(ひめこそ)の郷」はみな韓国渡来の神である。

*わが国の【遊部(あそびべ)】は、死者の遊離魂をよび返すことを職掌とする職能者の集団をいう。送葬や招魂の儀礼の際に行なうもので、古代の遊芸は概ねその儀礼から出ている。天若日子の喪屋で八日八夜の【遊び】が行なわれたこと、日本武の送葬歌などにその古い形式がみられる。

11/10
*ことばは単なる音声やその連続ではなく、実体をもつ。神の名をよぶことは神をそこに招くことであり、死者の名を口にするときは、その霊をよぶ危険があるとされた。「ことだまの幸(さき)はふ」というのは、ひとりわが国の古代のみではなく、ことばの発達の過程にみられる一般的な事実である。

*この百年来の歴史をみても、どこにも光明はない。人はいよいよ賢明に、悪事をはたらく。しかし決して失望してはならない。真に霊活なる自然の力がはたらく限り、それは一種の過程的な体験として、生かされるはずである。真に霊活なる自然界からみると、絶対の悪というものはありえないからである。

11/8
*絶対は対者を拒否する。しかし対者の拒否が単なる否定にとどまる限り、それは限りなく対者を生みつづけるであろう。対者の否定とは、対者を包みかつ超えるものでなくてはならぬ。有に対する無は、またその対立を超えた無無であり、さらにそれを超えた無無無でなければならぬ。

*鳥獣の類もみな神性の化身であり、狩することはその神霊と交わることであるから、狩猟をも【遊】という。

*共同体を営むことも知らず、少数の群れをなして、山林を彷徨しつづける西南アジアの山中族ピー・トング・ルアングは、死して虎になると信じている。食べたり食べられたりする関係を、彼らは同族とみなした。

11/3
*【ぬさ(幣)】神に祈るときにささげるもの。けがれを祓うためにも用いる。古くは衣服を用いたものであろうが、のち木綿(ゆふ)・麻を用い、また布や紙などを用いる。遠く旅に出るときには、諸所の道祖神に供えるため、幣(ぬさ)袋を用意したものである。

*古代の人びとが何らか神的なものの存在を感じて、それにはたらきかける行為をはじめたとき、すでに歌謡の胎生があった。

*最も恐ろしいものは、原子力発電の跡始末である。

*古代の人びとが何らか神的なものの存在を感じて、それにはたらきかける行為をはじめたとき、すでに歌謡の胎生があった。

11/2
*「命を知る」とは、与えられた命を自覚し、それに対応するということであろう。天命は自己の実践的な修為を通じて自覚される。単に所与的なものではなく、自己の行為を媒介として自覚されるのである。

11/1
*【峠】国字。山道の往還をわかつ登りつめた高いところ。そこには道祖神をまつり、【手向け】をして路の安全を祈る習わしであった。【とうげ】は【手向け】の音便化した語である。