変化するにちにち, 歌う

歌う〈からだ〉壁は高いが

「いざ出陣!」ではないが、気持ちが高まりつつある。木曜日夜の通常練習は今日で終わり。日曜日の合同練習を経て来週火曜日の朝夜、木曜日金曜日の二回のオケ合わせ、そして本番だ。

9時半近くまで練習、遅くなってもビールなしに帰れるものかと、いつもの店に。集中できず引っかかりあり!の情けなさも笑い飛ばして(とはいかないけど)乾杯。

帰りの車中で、『ことばが劈(ひら)かれるとき』(竹内敏晴箸  ちくま文庫)を読む。どこを読んでも立ち止まってしまうが、今日開いたところは、あああ、「わたし宛て」だ、と思わせてしまう。

「ことばは他者に向かう。[略] 自己は自己のこえを聞いてはいられぬ、自己のこえを聞くときは自己の内に留まることだから。自己がこえとして、行動として他者に向かって働きかけるとき、自己は自己を超え、自己を意識することを放棄するということである。私流に言えば、私が真に私として行動する(ことばを発する)とき、私はもはや私ではない。」(  同  196頁)

合唱でも「自分の声を聞かない」「声を身体から放して」と言われるが、竹内敏晴氏のこの言葉(大きく省略しての引用ですみません)は、順を追って確認していくように、丁寧に言葉を尽くしてある。この言葉で腑に落ちる(短絡的に受け取っていることを承知の上で)。

超えるべき壁は高いが…、本当に高い、が、こういうときは、「が」、ととりあえず言ってみる。一方で、「樹くん」の言う「未来のイメージをすでに体感」してしまってもいる。