変化するにちにち

戦死した、写真でしか知らない伯父

何ヶ月も前だ。出征する伯父の夢を見た。伯父の顔は、あのフィギュアスケートの◯◯くんだった。泣いて旗を振って見送る夢だった。あまりにもリアルで誰にも言わず仕舞い込んできた。
一つだけはっきりしているのはその夢によって、写真でしか知らない戦死した伯父が、生きていた人として、生身として感じられ、祖父母の、母の思いに少しだけだが近づいた気がした。そして一首だけでも祖父母を通さずに詠みたかった。

なんとか短歌にしたいと、何ヶ月推敲を試みても陳腐でしっくり来ない。今月も歌会で批評してもらうために板書したが違和感がある。今日は朝から取りかかって、からだが今までと違い、すっと受け入れるものを感じた。何故かは分からないが、これでよいと感じた。速達で原稿を今日送った、締切日の15日にはセーフだ。

表現以前の「からだ」はこのように感じていたのだろうかと思う。一方、自分がそのように感じていたのだと、生まれ出た言葉によって気づかされ、変化するということもある。どちらかと言うと、後者が歌詠むことの醍醐味だろう。

7月に作った伯父の歌がある(この時点ではまだ祖父母、母を通してしか詠めていない)。夢のこともあって、また最近は国会議事堂前の集会に何回か行ったこともあって、この夏は特に伯父のことを考えた。

  「声」 

《戦死した伯父をかなしむ祖父祖母の遠き言葉を母繰り返す》

《むかしむかし祖父が言ってた「ぐゎんたれ戦争」認知症の母が今繰り返す》

《祖父の言う「海軍さん」とは戦死した伯父との距離だ泣かないための〉

2015 「好日」9月号より