6日朝、黙祷をしたのち、千鳥ヶ淵戦没者墓苑へ行こうと思いたった。
千鳥ヶ淵の桜は、枝も幹も、年ごとに堀のほうに傾き、突っかい棒で支えられたものも多くなっている。身を屈めないと通れなかったりする。お堀のほうに傾いていて、樹がまるでお堀を覗き込もうとしているかのようで、その角度は尋常ではない。「桜って水が好きなんだって」と聞いたことがあるが、ここの桜には強烈な「気」「意思」を感じる。
堀沿いに歩いている人は2,3人いるかいないかである。つくつく法師が鳴いている。方言で「じぐりっしょ」と言っていたような…、耳をすますとやはり「じぐりっしょ」と鳴いている(方言だから当然ですね)。墓苑には私一人、でも菊が十数本あったので来ている人もあるということが判る。
戦死した若き伯父には毎年、黄色の菊を手向けるが、今年の菊は白色だけだった。一番元気そうな菊を選んだ、が、白菊はなんだか寂しい、来年は黄菊を持って行ったほうがいいかも知れない。
44年に伯父が戦死して7年後に私は生まれたことになる。祖父祖母に伯父の話を繰り返し聞いてはいても、母が今、繰り返しくりかえし、在りし日の「兄(あん)さん」を語っても「顔を知らない」「会ったことがない」という距離感は、容易に縮まらない。千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、毎年なんとなく場違いのような違和感のなかで、それでも心をこめて菊を手向ける。
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