能楽師安田登の『肝(きも)をゆるめる身体作法』
能楽師安田登の本ばかりここのところ読み続けている。今手元にあるのは『肝(きも)をゆるめる身体作法』(実業之日本社)で、世阿弥の「初心忘るべからず」の解説もある。
「初」は衣と刀でできていて、布地にはじめて鋏を入れるがもともとの意味だとある。どんなに美しい布地でもざっくり鋏を入れなければならない、「初」が必要であると。ゆえに、「基本の意味はいままでの自分をバッサリ斬り捨てる」ことなのだとある(155,156頁)。
謡の稽古については、「『力む』と『力を入れる』とは違う」のだと言う。師匠に「腹に力を入れろ」と言われ、腹筋に力を入れると「力むな、力を抜け」と怒鳴られる。「もっと気合い入れろ」と怒鳴られ、筋肉に力をいれると「力むな」と怒鳴られる(57頁)。「やっては怒鳴られ、やっては怒鳴られしているうちに、その葛藤の繰り返しでもがいていると、いつの間にか、力を抜きつつも、地に足がつき、腹の力で謡ったり、舞うことができてくるのです」(59頁)と。
要は:(お腹に「力」を入れるとは→腹筋をぐっと固くすることではなく腹部に魂を込める)、(からだに「ちから」を込めるとは→からだの細部に魂を行き渡らせる)(58頁)、「そうすることによって、表層の筋肉はゆるめたまま、深層の筋肉だけで呼吸をしたり、動いたりすることができるように」なるのだと。
同じ呼吸の仕方、身体の動かし方でも「魂を込める、行き渡らせる」の表現をとると一気に身体への愛着が湧く。
発声に関する本をここ10年間に何十冊と読んできたが「魂」という言葉に出会ったのは初めてだ。「魂を込める」「魂を行き渡らせる」には、今まで読んだ習ったことの諸々を含むのはもちろん、生きることの悲哀さえも包み込む奥深さを有する気がする。
いくつになっても身体は進化、身体性は向上すると思う、
ゆえに年齢を重ねることも楽しみである。何よりも呼吸の奥深さを改めて思う。
フランス、プラムビレッジの禅僧ティク・ナット・ハン氏の「いま・ここ」の呼吸が急に身近になる。