⬆️ココチヨイキノウノヨイン
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拙い内容ですがお読みいただけると幸いです。
少しでも読みやすくなるように改行を多くしてあります。
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『短歌研究』2022-6では「機会詠」論を特集している。なぜ機会詩ではなく機会詠なのか。阪神淡路大震災の折には「機会詩」という言葉が使われたので首を傾げたが、その理由は編集後記にあった。「時代をどう詠むか」ということのようだ。
「いまの歌人たちは、これからどういう意識で歌を詠んでいけばよいのか」と問い、「常にわたしたちの傍にある問題ではないでしょうか」と言う。ロシアの「ウクライナ侵攻」に関する歌がいま多く詠まれている。
その中で多くの歌がウクライナへの憐れみのような視点だったり、善悪を分けてパターン化されていないだろうか。
「時代をどう詠むか」、答えは出ないが「常にわたしたちの傍にある問題」として改めて考える必要があろう。
次の歌は「どう詠むか」を考える上で、自分がつつかれているような感じを覚える。「どの局もどの局も、報道の構図が同じであることをこそ疑ひたい」の詞書がある。
〇プーチンは悪なれどその単純化わかりやすさにこそ雪崩るる メディア
永田和宏(『短歌研究』2022-6巻頭詠より)
そう単純ではないのだと言う。メディアのことを詠っているが、「いまの歌人たち」にも呼びかけているようでならない。わたしたちは「単純化わかりやすさにこそ雪崩るる」詠み方をしていないだろうか。
永田はこの他に、ミャンマーのいまを忘れていないかと問い、〈二年後にまだウクライナを詠へるか忘れてゐないか飽きていないか〉と相当のエネルギーを使っている。
冒頭に挙げた「機会詠」論の書き手の一人である高木佳子が選んだ中から、いわゆる一般的な常識とは相反する思いを詠った二首を挙げる。「どう詠むか」を考える上で避けては通れないと思う。
〇紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
大辻隆弘『デプス』
主語を「われら」としたことを高木は指摘して、それは個の責任回避や、「正しさ」を強化することに繋がらないかと言う。
そうだろうかと思う(筆者)。仮に「わたし」としても問題はさほど変わらないのではないか。「壮快」「待っていた」ではやや騒がしく躊躇や葛藤はさほど感じられない。うまく言えないが、同じ思いでも表現方法を変えれば受け入れられやすいのではないだろうか。
〇ひげ白みまなこさびしきビンラディン。まだ生きてあれ。歳くれむとす
岡野弘彦『バグダッド燃ゆ』
「ひげ」と無防備の「まなこ」に深い愛おしみ、一人の命がわれと同じ線上にあり普遍性をもって静かだ。これら二首は常識とは相反する視点で同じであるが、その違いは大きい。前者は突き放し、われと二極化し、後者は引き寄せてわれと一つになっている。
「機会詠」論の書き手の一人である大口玲子の言葉が痛い。「どこかで深く傷つきながら歌を詠んでいる」と言う。これは多くのことを示唆している。「どう詠むか」は身体を使う。
〇ひげのあるフセイン、ひげのなきブッシュそのはざまにて死にゆく兵ら
『高野公彦歌集』平成六年(「地中銀河」より)
〇戦火いくつ 他者のいたみをわがいたみとする者あらば狂ひ死にせむ (同歌集より)
二首ともに滲み出る痛みがある。三十年近く前の歌だが、まるで今の反映のようだ。
いったん戦いが始まるとロシア、ウクライもなく人の命が失われる。
「身を絞るように」言葉を駆使して、高野公彦は常に、「どう詠むか」を刺激し続けている。
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⬆️黄葉が目立ってきた〈森の径〉
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