歌う

ブラームス「五月の夜」

「五月の夜」をプリントして3日目。もう何十回も聞き、音と言葉の空間に浮遊している気分。次の曲にと練習していた「メロディーのように」には戻りたくなくなってしまった。

『硝子戸の中』を読んで漱石を身近に感じたように、同じ感覚になっているのが、不思議なようでもあり当然のことのようでもある。

もう一つは直感、体感だが、ブラームスの「自己慰謝」だ。彼自身がこの曲にどれほど慰められたであろうかとの思い。

体感であるがゆえにその人にとっては真実。言葉・音がゆるゆる沁み入る。

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またしても早稲田へ行くのには訳あり。安い折り畳み傘を買うため。軽くて重宝していたモンベルの傘をどこかに置き忘れた(ようだ)。気づいたのは2日後、カナシイヨー。タカカッタノニー。

ここでしばらく歌ってみる、周りには誰もいない。遠くで早稲田の学生たちが10人くらいで踊りの練習をしている。