母とともに(鹿児島)

11日目(1)山中に迷い込む

再び行った高城温泉でバスの時間を間違えて乗れなかった。次は4時間後。待てない。

西方駅まで歩こう。道を教えてくださった温泉の主人と私の頭の地図が違うことに気づいたのは家に帰りついて冷静になってから。

西郷さんの像の「横」は「前」のことだった。勘違いして「脇」を上って行ったことになる。

山で事故、事件に遭うことが我が身にも起こりうる、簡単に遭難する可能性もあると実感する。

山中で、自分が今どこにいるのか警察に電話しようか、老女を救助?という大事になっても大変、ギリギリまで待つ、と判断した。

ここで聞いて出発したのだ

西郷さんの像の脇を上がって、あー気持ちいい日和、わずかな不安はやはりあるけど写真を撮る余裕もある。

ここの家に車はあったが人が見えない。この道でいいかを人に確認をしたかったけど・・・神社はあるに違いない・・・

まだ明るく里から地続きである気がする。余裕を持って写真を撮る。

すぐに山道になって、その空気に人家は想像できない。

棒切れを一本拾う、熊(まさか)、猪(十分にありうる)、猿(実家あたりにいる)に出くわした時のために。ここから先は写真は一枚もない。それどころではなかった。

車道には辿り着けそうにない、というよりだんだん離れて山中に深く入り込んでいるように感じる。引き返して別の道を行こう。

おかしい、神社までは2,30分で一本道、西方駅まで1時間弱と聞いている。でももう一時間経っている。

途中で二手に分かれる、三つに分かれるところもある。車の跡が残るところを見つけて進む。

木の高さを見上げては不安、車の音が聞こえないか立ち止まって全身を耳にして聞いたが、風だ、車ではない。この時の身体感覚は今でも残っている。

別の道を行って高い所に出る、出水分岐点の印がある。そして更に二手に分かれ下りになる。

引き返さないと来た道さえ分からなくなると更に怖くなる。三つに分かれるところに立ってみる。どこから上って来たのか、、、?

こういう状況で冷静であったのが身体感覚。身体を信じる、感覚が働く、内田樹の言葉などがぐるぐる巡る。

また、〈歌って感覚を磨いているから危険察知の感は働くはず!〉という信頼、身体は当てになると思う余裕もある。

あ、この木だ、なんだか蛇みたいにクネクネ曲がった木、と上る時に思った木だ、この道を下りればよい。もう二手に分かれていても探すことはせずに高城温泉まで引き返そう。一時間半経っている、おかしい。

もうすぐ人家が見えるはずというところで軽トラ?に合う。誰でもいい、手を上げる。近づくと表情がいかにも人の良いおじいさんという感じ(助かりました!)、おじいさんが「西郷さんの像まで戻って、右に曲がると、、、」。

西郷さんがもうすぐ見えるというところまで来て、この野薊に出逢う。宇宙。

西郷さんが見えた。〈あ!右に曲がるのか・・・なんだ、バス通りを途中までは行くのだったんだ〉。主人はどうして違う道を教えた?(この時点ではまだ主人が間違って教えたとの思い込みがあった)。

これだけ書くのに精一杯。でもトラウマ回避または少しでも和らげるために書くことにした。

向こう見ずは怖いと身をもって体験。ながながだらだら垂れ流し的な文を、根気よくお読みくださりありがとうございます❣️