白川静先生の漢字の世界

漢字の世界(3月)*白川静@sizukashirakawaより

白川静氏が亡くなられた後、どなたがツイッターとして載せていらっしゃるのか。ご家族だろうか?毎日楽しみにしている。固定ページにコピーさせていただいているが、多すぎるので一月分ずつ転載することにしました。理解が難しすぎてほんの一部分ですが。

3/31
*識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。【道】とは、その俘馘の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。

3/30
最も恐ろしいものは、原子力発電の跡始末である。

3/29
*東アジアにおける古代歌謡の時代は、古代的氏族制の中核をなすものが外圧によって破壊され、新しい階級的関係に入るときに生まれた。[詩]や[万葉集]は、そのような意味をもつものとして、その比較的な分析の対象とすべきものであろう。

*許慎の誤りは、古を解するに今を以てするというところにあった。古代文字の世界に導入することを拒むものは、常にこの「今を以て古を解する」という誤った方法にある。もし「古を以て古を解する」という方法論的用意を以て臨むならば、古代の世界は整然として目前にその躍動する姿態を現わすであろう。

3/28
*【風】は風神によってその地域にもたらされる天の気であり、その地域の風土性も、人の気質も、みなそれに影響され、形成されるものと考えられた。人は【いき】によってこれを摂受するのである。

*動物たちがその神性を棄て、愚かしい人間の知恵をもって動くこと、神的なものの媒介ではなく、人間的なものを媒介として、人間を見ること、人間を批判すること、そのありかたを否定するところに、寓話が成立する。寓話は古代専制者への批判として、それへの抵抗として生まれた。

3/27
*卜文の【沈】の字は、水間に牛や羊をしるし、犠牲を沈めることを示す字であった。犠牲のことを沈薶(ちんばい)といい、水に沈、土中に埋めることを【薶】といい、【埋】の初文である。これらの犠牲を以て神意を安んずるを【鎮】という。【沈む】と【鎮む】とは国語においても同根の語。

3/26
*ことばは手段にすぎない。しかしその手段にすぎないことばをはなれて、道を説くことができるであろうか。無限定なる道を説くには、概念の限定をこえなければならない。その概念を拒否する表現の手段が、寓言である。虚のみが、実をあらわしうるのである。

*【つきこもり(晦)】月の末日。月の光が消えてなくなる日をいう。のちの【つごもり】にあたる。その見えはじめるときを【月立ち】、のち【ついたち】という。十二月は特に【おほつごもり】といい、その日に祖先の霊を迎え、「みたまの飯(いひ)」を供えて祭ることが行なわれた。

*私は若年のとき甚だ虚弱であって、兵隊検査のときには丙種合格であった。丙種でも合格というのは「蜻蛉蝶々も鳥のうち」という扱いかたである。それでどこまでやれるかということが、常に私の課題であった。その「どこまで」が、ついに今日に連なっている。

*識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。【道】とは、その俘馘の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。

3/25
*伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。

*【応】はもと【應】に作る。【應】は【䧹(おう)】に従い、【䧹】は【鷹(おう)】の初文。人の臂(ひじ)の上に【鷹】を据えた形である。大事を行なうときには「うけひ狩り」をし、鷹狩りによって成否を卜った。それに対する神の応答が【應】であった。

*衣服は、人の魂を包むものであった。人が生まれると産衣を用いて霊を守り、別れるときには紐を結びあい、死を送るときにはふたたび解くことのない卒衣の紐を結んだ。故人を思うときにも衣をかけてしのんだものである。初生の儀礼や喪葬に関する儀礼の字が、多く衣を要素としているのはそのためである。

3/24
*【旗】を掲げるものは、その氏族神とともにあるものである。氏族の者たちが遠く出行する際に、旗を掲げて行動するのは、その氏族神とともに行動することであり、あるいは氏族神そのものの出行とも考えられる。それが【遊】である

*原初の文字には原初の観念が含まれている。神話的な思惟をも含めて、はじめて生まれた文字の形象は、古代的な思惟そのものである。

*殷代の文化は東アジア的な沿海文化であり、わが国が文身の俗をもち、子安貝を宝とし、汎神論的な世界観をもち、霊魂の不滅を信じ、媚毒をおそれ、呪的な世界観をもつことにおいて、両者の古俗には極めて親近性に富むものがある。

*遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。【游】は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。

*遊ぶものが神であるということの証左はいくらでもあげることができるが、最も直接的には、たとえば女神がしばしば遊女とよばれていることを指摘するのみでも十分であろう。遊女とは出行する女神である。

*霊は天上に住んだ。鳥はその使者であり、ときには霊そのものであった。

*鳥獣の類もみな神性の化身であり、狩することはその神霊と交わることであるから、狩猟をも【遊】という。

*僕は誠に晩学で、三十八歳で最初の論文を書いた。周りの人たちより始まりが一回り遅いので、今でも自分の年齢から十二歳引いて考えているんです。