初回より二回目、そしてまた一歩前進したのでは。入力しやすい、見やすい、遊び心のある画面に進化。「遊ぶ」はいい言葉だ。白川静の本でますます好きになった。昼休み1時間を入れると午前午後合わせて5時間。
午後の進行係をした。送信を押したつもり、が更新マークを押したらしい(2回もやってしまった)、中身が消えてしまう。コピペ、番号入力のやり直し(1分が無駄になると焦る)、冷や汗をかく。しかし気持ちのよい歌会だった。
自分に関して言えば、いつもだが読み方が甘い。人の歌は重箱の隅までつついてしまうのに自分のは気づかず。四句五句を入れ替えるとの今日の指摘はよかった。まったくそのとおり。入れ替え、転がす、これはいつもしているつもりだったが…。
《草ひくき野をゆくごとくすこしずつ遠ざかりゆく知を病める母》
《草ひくき野をゆくごとくすこしずつ知を病める母遠ざかりゆく》
入れ替えによって「すこしずつ」が「知を病める母」と「遠ざかりゆく」と両方にかかる。もう一つは、わたしにとっては大切なことで、母はまだ知を病む状態には至っていない、知的な冗談は十分に成り立っていると思っている。ゆえに歌にずっと違和感があった(自作なのに)。順を入れ替えると気持ちが添う。すこしずつ知が失われるだろうというニュアンスが出る。ああわたしはこのことが言いたかったのだと気づく。「あらかじめ言葉があるのではなく、生まれた言葉によって気づかされ、変化する」のだ。
「認知症」という言葉は、使いたくないということではない。文語的雰囲気のこの歌に相応しくないと感じられたから使わなかっただけで、合うと思えば使いたいし、否、すでに使って詠んでいる。
《むかしむかし祖父が言ってた「ぐぁんたれ戦争」認知症の母が今繰り返す》(2015年 好日 9月号)
「知を病める」は成立しうるか、については、最初から迷い、今も迷っている、急いで結論を出さず(出せず)もう少し迷ってみるのも無駄ではない、というより大切なことだろう。
ここまで来て、上の一首を挿入したら、認知症に違和感があることに気づく。気持ちと噛み合わない、遠くから軽蔑しているような視線を感じてしまう。繰り返すのは、年齢を重ねたことのほうが大きいと思う。「認知症」という言葉に抵抗感があるのか、もしかしたら受け容れたくないのかもしれない。混乱してきた(溜息)。