変化するにちにち

白川静の世界にはいりこむ

「詩を書くように」小説を書くという宮城谷昌光の、『沙中の回廊』の新聞連載がはじまったのが1999年、おそらくそのころ白川静の名を知ったのだと思う。宮城谷昌光によって、春秋時代の人びとがいきいき立ち上がり、漢字が新鮮だった。

白川静に行ったのは必然だった気がする。『中国古代の文化』『中国古代の民俗』(講談社学術文庫)の二冊を買ったが、のめり込んだ記憶はない。

それから15年、また読んでみようかと『呪の思想』を借りた。これは梅原猛が質問して白川静が答えるという方法で進むが、二人の方言もまた味わい深い。その場の声も聞こえてくる。どれもこれもいっぱいありすぎていい尽くせないが、『詩経』と初期『万葉集』のつながりなど、「そうだったのか」の世界。途中でやめることは不可能に近い。梅原猛の『水底の歌』を読んでいる方にはもうたまらないかと……。

『白川静読本』(平凡社)は、氏が亡くなった(2006年に亡くなっている、享年96)あとの出版である。梅原猛、石牟礼道子、宮城谷昌光、池田晶子、五木寛之、吉本隆明、立花隆、内田樹(もちろん)をはじめ47人が書いていて、あれもこれも読みたいと思わせるような本の紹介も多い。

このなかに能楽師安田登の言葉がある。白川静がやめられない理由がわかった。

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白川文字学の魅力は、何といってもその呪術生と身体性にある。
頭でっかちの小難しい議論は、能という身体系の仕事を生業としている私たちには遠く感じる。置いてけぼりにされたような感じすらする。だいたい、私たち人間は身体的な存在である。
一見、身体から離れているように思える文字だって、言葉だって、そして思考だって身体から出ている(とメルロ・ポンティは書いている)。
どんなに偉そうなことを言っても、身体性が伴わなければそれは信ずるに足りない。
白川文字学を通して古典を読み直してみると、モノクロの古典に色がつき、そしてそれが自分の身体の中で躍動してくるのを感じて、嬉しくて、嬉しくて踊りだしたくなるのである。
(169頁〜173頁、筆者抄出)

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そう! 「踊りだしたくなる」のだ。