一年で最も「もの思う月」である気がする八月は、祖父母の「戦死した息子」(私にとっては伯父)を「かなしむ」、その記憶とともにある。
故郷での18年間、母方の祖父母の家に峠を越えて歩いて行って(と言っても30分たらず)15日のお盆を過ごした。終戦の日でもある15日、お昼にはかならずサイレンが鳴って、大人たちは黙祷をした。祖母も母も涙をそっとふいて、祖父は堂々と拭っていた。その空気感が子ども心に感じられ、私はサイレンの鳴る前に庭に出て、そこから見ていた。
「ぐゎんたれ戦争」
伯父の名が、「金剛」という言葉が何度も出た。祖父は伯父のことを「海軍さん」と呼んだりした、軍艦「『金剛』は強かった」と言う祖父の裏の思いは、推して知るべしだろう。母には「ぐゎんたれ戦争」と言っていたらしい。「海の藻屑になってしまって…、沈んで魚の餌になってしまって…、」と祖母の言葉を今では母が繰り返す。
祖父は、「隠れ念仏」の子孫の誇り高い人で、お盆は必ず精進料理であった。私も習慣になってしまって、15日は土鍋で昆布の出汁をとる。20年ほど前だろうか、昆布を横に切り目を入れて、一晩水に浸したものを翌朝覗いたら、切り目を入れた部分が肋骨のように見えた。「水漬く屍」に思えた。「海行かば…」類の軍歌は父方の伯父たちがいつも歌っていて身に染み付いている。今は昆布は細かく切ってしまうことにしている。
「なにか大変なもの」
44年に戦死した伯父に対しては特別の感情は湧いてこない。「会ったことのない人」「知らぬ人」の域を出ない。「戦死」ということは祖父母の言葉、18年間繰り返された15日の雰囲気を通してのみ感じられるが、この体験を通して、重く、暗い、「なにか大変なもの」を体感として受け取ってしまった気がする。
この体験が千鳥ヶ淵戦没者墓苑に私を行かせる。