白川静先生の漢字の世界

白川静先生ノ漢字ノ世界 2017-9

白川静先生のツイッター @sizukashirakawaより抜粋してあります。

9/28
*識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。【道】とは、その俘馘の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。

9/23
*【詠】音符は永。永は水の流れが合流して、その水脈の長いことをいう。強く長く声をのばして詩歌を歌いあげることを詠といい【うたう】の意味となる。また「詩歌を作る、よむ」の意味に用いる。わが国で、声を長く引き節をつけて詩歌を歌うことを【詠(なが)む】というのも、その意味であろう。

9/20
足が直接に地にふれるということが、地霊との交渉を可能にする。そしてそのことばが律動をもつように、足の動きも舞踊的となる。わが国では反閇とよばれる形式がそれにあたる。これが舞うことの起源であった。

9/19
*僕は誠に晩学で、三十八歳で最初の論文を書いた。周りの人たちより始まりが一回り遅いので、今でも自分の年齢から十二歳引いて考えているんです。

9/16
*動物は神を見つけることはできなかった。だからいまでも動物なんです。むしろ神を客観化することができなかったから、彼ら自身、神であるかもしれませんけどね。

*【くし(酒)】|【さけ】の異名。【奇(くす)し】【薬(くすり)】の【くす】と同根の語で、ふしぎな力をもつものの意。【さけ】は【酒(き)】と関係のある語であろうが、その語義はなお明らかでない。【くし】は神酒などをいうほめことばであって、常の名ではない。

9/14
*【口(サイ)】は祝詞を納める器である。 その器の中に神の「音なふ」しるしが現れるので、その蓋を少し開いてみるのが【曰(えつ)】である。【曰(いわ)く】とは神の示す言葉であった。それで【曰】は「のたまはく」のように、敬語に読むのが本義である。

9/13
*[万葉]の歌に「見れど飽かぬ」「見る」「見ゆ」というように視覚に訴えていうものが多いが、それらは視覚を通して存在の内奥の生命にふれようとする、呪的な魂振りの行為であり、それは山川草木をはじめ、およそ存在するもの、生命感情の移入しうる一切のものに及んでいる。

9/11
*寓話が古代のある時期に生まれるのは、専制者に対する抵抗力の乏しい民衆が、これを戯画化し諷刺することによって、これに復讐するためのものであった。それは本来、抵抗の文学である。寓話がサモス島の奴隷であったイソップにはじまるとされるのも、そのゆえである。

*三千二百年昔。僕が見ておるのはな。三千二百年昔の世界なんや。

9/6
*【祭】は肉を【示】(祭壇)に供えてお祭りをする。【祀】は自然の霊を祀る。【祭】は祖先の祭りをいい、【祀】は自然神の祀りというように、それぞれ分野がちがうのです。

*あのおろかしい戦争のるつぼの中に、すべてが消えていった。アジア的あるいは東洋的という名で考えられていた文化概念、価値概念は、まったく虚しいものとなった。すべてが失われたなかに、救いというべきものが、ただ一つだけ残されていた。それは漢字を通じての、一縷のつながりであった。

*【ち(風)】激しく吹く風。風をまた【て】とも【ぜ】【し】ともいう。【東風(こち)】【疾風(はやて)】のほか【風】【山風(やまぜ)】【まぜ】【南島風(いなさ)】【嵐】などみなその系統の語である。【霊(ち・し・つ)】とも関係があり、それは自然の生命の息吹きそのものであると考えられた。

9/3
*わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを、意味していよう。

9/2
笠蓑が神聖をかくすものであるとする考えかたは、素神追放の説話のうちにもみられるが、神事としては笠桙の風流がのちにも伝えられた。笠桙を風流の飾り物とすることは、古代の中国・朝鮮にも行なわれていたことである。【風流】は【振る】から出た語で、風流はそのあて字である。

*衣服は、人の魂を包むものであった。人が生まれると産衣を用いて霊を守り、別れるときには紐を結びあい、死を送るときにはふたたび解くことのない卒衣の紐を結んだ。故人を思うときにも衣をかけてしのんだものである。初生の儀礼や喪葬に関する儀礼の字が、多く衣を要素としているのはそのためである。

9/1
*【いのち(命)】「生の靈(いのち)」の意であろう。【い】は【生き】【息吹き】の【い】。生命の直接的なあかしの息吹きを以て、生命の義とする。それは各民族語の間で共通する概念で、spiritやanimalはみな「いきをするもの」を意味した。