変化するにちにち

内田樹の本での気づき(病院で)

病院でパジャマを着ないのは、囚人服のようで嫌だという単なる好き嫌いの問題と思っていた。だがそれだけではないと気づかせてくれたのが内田樹の『街場の文体論』(「2010年の十月から翌年の一月まで、神戸女学院大学での最後の講義『クリエイティブ・ライティング』で話したことを基にしています」「あとがき」より)。

「樹くん」の本はどんなに難しくても読みやすいし疲れない、笑わせてくれる、「呼吸しやすい文体」なので病院に持っていった。まあなんというバラエティに富んだ発想であることか、 重いのを我慢して持ってきた甲斐があった、これこそ「樹くん」 と前日笑った部分があった。

「 われわれはエクリチュールの虜囚である」ことを語っています。
僕は今「クリエイティブ・ライティング」という授業をする大学の先生として教壇に立っています。だから、それにふさわしい話し方をしています。でも、それだけじゃない。服装も表情も身体の動かし方も、実は全部「大学の先生」的に統制されているんです。今話しているのと同じ内容を、髪の毛ぼさぼさでパジャマ姿でやってくれとか、ステテコに腹巻きでやってくれとか、燕尾服にシルクハットでやってくれと言われても、できません。全部セットになっているから。一点一画も変えられない。服を変え、髪型を変えたら、語り口も、話のコンテンツも、うっかりすると話の結論まで変わってしまう。(『街場の文体論』ミシマ社、122頁 、ゴシック強調は筆者)

前日、ただ笑って面白がっていた部分が、いとも簡単に腑に落ちる。
退院する日の朝8時過ぎに主治医の回診があった。スカートを履いて、靴を履いて椅子に座っていたので、さっと立ち上がってお礼を申し上げ、いくつか質問をした。これでもしベッドでパジャマ姿だったら、起きていたとしても髪ぼさぼさでスリッパであったら、必要以上に卑下したであろうことはもう絶対である。 それこそ「語り口も、うっかりすると話の結論まで変わって」いたかも知れない。

日常の服を着ることによって、昨日までの私を維持し、言葉を維持し、看護師、医師という病院では絶対的な人たちに対し、その差異を少しでも縮め、対等に近づく行為、身を守り誇りを守る行為でもあったのではと今にして思う。