変化するにちにち

短歌時評:好日2020年10月号より

「好日」に短歌時評は長く書いてはいるが慣れるということはなく、気に入らず、一度もブログに載せてはいない。

今回は「コロナ」の特別な状況下でのことや、河野裕子さんを読んだ感動を表面だけでも残したかった。舌足らずになっていますがお読みいただければ幸いです。

読みやすいように2、3の改行、付け足しがあります。

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    「おのずから変わっていく」を信じて

今年は、「ウイルスの世界的大流行という、とても大きなことが自然界で起きている」状況で、人が、短歌界だけに限らず、どのような言葉を発しているのかが気になる。

必要以上にうろたえないためには言葉が力になる。話や短歌の双方に「気づき」があり、変化の兆候が感じられる。

東京新聞8月3日の「つぶやく短歌」で永田和宏は次のように言う。「当然のように会っていた何人もの友人あるいは同僚。会うことを禁じられても何の痛痒(つうよう)も感じない人がいる反面、そんな時にこそ会いたい人がいることを、強く意識させられることにもなった」。

養老孟司の言葉、「いま起きていることを[略]、体で感じてほしい。芸術や文化が、どれほど生活する上で大切なものか。心から欲することで理解できるはずだ」と重なる(東京新聞5月23日)。

《 濃厚接触われに許さるるただひとりこのをさなごを高く抱きあぐ 》 同新聞「つぶやく短歌」永田和宏

《 マスクしてコロナウイルスに抗へば不要不急のものらかがやく 》 馬場あき子「短歌研究」5月号

《 両耳がここについててよかったとマスクをつけるたびに思へり 》 『短歌』2020年5月号  小池光

一首目はおさなごの無防備な命へのいとおしさ、二首目は不要不急を逆にかがやかくと風刺、三首目のゆったりとした言葉運びはこの作者独特のものだ。三首共にこういう時の、独自性が、何気ないことの息づかいがある。

『短歌』8月号は大特集「没後十年 河野裕子」に50頁以上を割く。思い出、全歌集レビューなど、其々書き手の熱量がこもる。ではあるが、こういうのを聞きたかったというのがあった。「家族鼎談」は言葉の遣り取りの「場」の風通しが良く温かく、河野裕子のことがよく見える。

永田淳、永田紅は母である河野を其々、「母には衒いとか外連とかが全くないから」「母は嘘くさいのがすごく嫌いで」と語る。『蟬声』にもそれが鮮明に出ているものがある。「言はないで 裕子さんお元気そうでなんて わたしより紅が傷ついている」。こういった河野を、一言で言い得た人がある。精神科医の木村敏氏だという(「家族鼎談」より)。三枝昂之が歌を挙げている。

《 裕子さん誰もあなたを止められないあなたは大地に直結しているから 》 『蟬声』

これを河野はどのように受け取ったのだろうか。この前後の歌、「ものごとに意味はないんです 木村敏眼鏡の弦をゆつくり揺らし」、「組みてゐし脚組み直し分かりませんと語彙をつぎたりこの碩学は」からしても、河野はこの言葉と、がっぷり四つに組んでいるように思われる。

自然の一部である体、死。その受取り方も変化したのではないか。「言葉は、その内容に意味があるのではなく、そのはたらきこそが意味だ」(安冨歩共著『親鸞ルネサンス』)そのものである気がする。双方の、丸投げのような信頼関係を思う。

「何かを変えようとしなくても、こうした経験(ウイルスの世界的大流行のこと:筆者註)で、人はおのずから変わっていく」(同新聞、養老孟司)。この言葉を信じたい。

考えてみれば、河野の身体性をことさら特別視する必要はなく、むしろ現代の私たちこそ、意味性、意識に傾きすぎていることを、このコロナの時期を通して見直すべきではないかと感じる。時評にはなっていなくても、河野裕子の歌への迸りを書きたかった。