白川静先生の漢字の世界

白川静先生の漢字の世界(2017年10月)

白川静 先生のツイッター、@sizukashirakawaより抜粋、転載しています。

10月31日
*【作】は手のテクニックであるが【為】は手段を用いる技術的な方法である。しかしこの時代には、なおそのような人力と技術の他に、神意の協力を必要とした。それが【造】であった。【作】【為】【造】はいわば三位一体的な、古代技術の方法を示す語である。

*【ささやく(囁・喭)】四段。【ささ】は【そそ】。のちの歌詞に「そそや秋風」「ささら萩」などとみえるもので、もとかすかにもののふれあう音の擬態語。神のお告げはすべてそのようにかすかな音で示されるので【音づれ】という。

10/26
*京都・桂に小さな家を求め、空地に書庫を立てた。その書庫が私の仕事場である。家の前には、三歩にして尽きる小庭がある。そこが家内の遊び場である。家内は花が好きで、狭いところに、足の踏み場もないほど鉢を並べ、朝晩、一葉一花の手入れをする。狭いところだが、それがそれぞれの天地である。

10/23
*【鹿】を神獣とする観念は殷周のとき以来のことであるが、ただ漢以後の【麟】の図様には、羽翼を加えて羽翼獣とする観念があり、これは西方の天馬など神獣の観念と合して生れたものと思われる。

10/21
*山の斜面にいっぱい銅器を貼りつけるということは、わが国の出雲でも何箇所か出てまいります。銅鐸をずらっと並べる、あるいは鏃をいっぱい並べてある。殷でも、寧郷のあたりで、青銅器の中に斧を二百本ぐらい入れたのがあるんですが、出雲に出てくるのと同じやり方です。

10/18
*儀礼を行なうときには、その土主に酒をそそいで地霊をよび興し、その後に儀礼を行なった。[周礼]に「小祭祀には則ち興舞せず」とはその儀礼をいう。[詩]において【興】とよばれる発想法も、もとそのようにして地霊によびかける辞をいう。わが国の序詞や枕詞と、その起原的な発想の近いものである。

19/16
*許慎の誤りは、古を解するに今を以てするというところにあった。古代文字の世界に導入することを拒むものは、常にこの「今を以て古を解する」という誤った方法にある。もし「古を以て古を解する」という方法論的用意を以て臨むならば、古代の世界は整然として目前にその躍動する姿態を現わすであろう。

*東アジアにおける古代歌謡の時代は、古代的氏族制の中核をなすものが外圧によって破壊され、新しい階級的関係に入るときに生まれた。[詩]や[万葉集]は、そのような意味をもつものとして、その比較的な分析の対象とすべきものであろう。

10/15
*【きも(肝)】内臓を総称して【むらきも】という。区別していうときは【肝】は肝臓である。「肝向かふ」は臓腑の集まり合う意で【こころ】の枕詞。【肝】に心が宿るとされていたのであろう。

10/13
*漢字は中国で生まれたが、音訓両用に使いこなしたわが国では、それは同時に国字となった。国語と漢字と、この二つのものを習合し、融会したところに国語が成り、その思惟の世界も、表現の世界も、その中に生まれた。この不思議な融会の姿の中に、わが国の文化の多くの秘密がある。

*日本の陰陽道と同じことが、大体ヨーロッパで十六、七世紀くらいまであるんです。王さまでも呪いをかけられるとね、十字架を付けた室の中に籠って隠れるというようなことをやるんですよ。

10/10
*【つま(夫・妻・嬬)】つまは【端(つま)】。ものの両側面をいう語である。それで一組のものが、たがいに相手を【わがつま】とよぶことができた。夫からは妻、妻からは夫をよぶ語で、のち妻の意に用いるようになった。新婚者の家も本家の端(つま)に作られ【つまや】という。

10/7
*国家が統一されると【盗】はまた姿を変えて、宮中に入って反骨を表わす。東方朔のような、後に仙人扱いされた者も出てくる。列国の群立する時代には、こういう流れ者のような自由人を【客】と言った。刺客の【客】です。王侯をないがしろにするというような気概がある者が多い。

10/4
*周の時代になりますと、王室の后は必ず川べりに機織殿(はたおりどの)を作って、その周辺に桑を育てて蚕を飼います。その習俗は今もわが国の皇室に受け継がれているのです。三千数百年にわたって、そういう親蚕(しんさん)の礼というものが行なわれている。

10/3
*ことばは、文字がなくても十分に発達し、持続することのできるものである。[古事記]に数倍する[ユーカラ]の物語をいまに伝誦するアイヌの文学が、そのことを証する。しかしそこには、文字は生まれなかった。おそらく、文字が奉仕すべき巨大な王権が、そこには生まれなかったからであろう。

10/1
*この講話(文字講話)をやろうと提案したときには、私は八十八歳でした。主催の文字文化研究所の理事たちがみんな笑ってね、「大丈夫ですか」と(笑)。私は「これは神様に約束をするんで、あなたたちに約束するんではない。神様に約束すれば、神様はわかっていただける」と答えました。