白川静先生の漢字の世界

白川静先生の漢字の世界(2017年8月)

ツイッター@sizukashirakawaよりの抜粋、転載しています。

8/30
*手書きの文字は、また自己の一部である。それは脳細胞に直結した指先を通じて、指先の感触と視覚が結び合うところに、ひとつの軌迹として生まれる。文字に逍遥することも、そのような世界のことである。今後もなお、私と同じように、このような文字の世界に遊ぶ人があるのであろうか。

8/22
*【風】は鳥形の神と考えられており、四方の方神のもとにそれぞれその風神がおり、固有の神名があった。それは神の使者として、その風土を支配し、風気を定め、風俗を左右した。目に見えぬこの神は、風雲を起こし、草葉におとずれて神のささやきを伝えるものとされていたのである。

8/21
*ことばはやはり、過去と未来とをつなぐものでなければならない。ことばの上でも、歴史を回復しなければならない。現在の振幅が、過去の共鳴をよび起す。そしてまた、未来を導き出すのである。

8/17
*大学で出席をとりますときに、名簿はみなカナタイプで打ってあった…それで何回読みましても、その人間と結びつかんのです。名前を読んでも、人間の顔が出て来ないのです。私は元の漢字に書き直します…それで出席をとる。そうしますと、名前と人間が合体するんです。

*神社と申しますと、日本に独特のように思われるかもしれませんが、先秦の文献で、[墨子 明鬼篇下]に「齊の神社」といいうふうに「神社」という言葉が出てまいります。その神社で、たとえば裁判沙汰でありますとか誓約などいろいろやるのです。

8/15
*『戦争』と言わず、『事変』と称して宣戦布告もせずに既成事実を重ねる。政治の前面に出てくるのは近代戦のあり方も知らない軍人ばかり。傑物が多かった中国の知日派に対し、日本は人材が不足していたのです。

8/13
*【道】をすでに在るものと考えるのは、のちの時代の人の感覚にすぎない。人はその保護霊によって守られる一定の生活圏をもつ。その生活圏を外に開くことは、ときには死の危機を招くことをも意味する。道は識られざる霊的な世界、自然をも含むその世界への、人間の挑戦によって開かれるのである。

*わが国はアメリカの基地と化し、朝鮮半島を二分して、アメリカと中国が対峙するという構図となっている。わが国はこの構図の改変について何らの発言権もない。春秋の筆法でいえば、これを附庸(ふよう)という。そのような状態が、すでに半世紀以上も続いているのである。

8月9日
*歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒瀆するものであるといえよう。

*卜文の【沈】の字は、水間に牛や羊をしるし、犠牲を沈めることを示す字であった。犠牲のことを沈薶(ちんばい)といい、水に沈、土中に埋めることを【薶】といい、【埋】の初文である。これらの犠牲を以て神意を安んずるを【鎮】という。【沈む】と【鎮む】とは国語においても同根の語。

*【紫】の【此】というのは小さいものをいう語であろうと思います。些少の【些】です。わが国で【むらさき】といえば、紫陽花のように小さな花が群がって咲く。そのような【群ら咲き】です。

8/6
*地上と高天原を連ねる梯は、高木の神のように神格化された木であった。神は柱で示されたので一柱二柱という。天上には神々がおり、地は天に対して存在する。それで神の降り立つところには獣を犠牲として供え、社を設けた。高梯と犠牲と社と、この三者を組み合わせたものが【墜】すなわち【地】である。

*聖数としては、日本では大体八百万の神とか、八岐の大蛇とか、【や】をつける、八をつける場合が非常に多いのです。【や】は【いよいよ】といった意味があり、【いやさか】の意味を持つ。後々発展するものというような意味合いがあって、これを尊んだものであろうかと思います。

·8月2日
*人がはじめて霊的な感覚にめざめたとき、すべての自然物はみな霊的なものであった。「草木すら言問ふ」という時代であった。そのなかで別けても鳥は、霊的なものであった。典型的には、渡り鳥の生態が最も神秘に満ちたものであった。それは霊の来往を示すものと考えられたのである。

*【老】こそ東洋における永遠の美である。ときにはその老境を強調するために、羅漢図などのように醜・怪に至ることも避けることがない。醜怪のうちに完全をみようとする思考は、すでに[荘子]のうちにもあった。そしてその終極は無に帰し、寂莫に帰する。

8/1
*地上におる神さまはね、大体これ、ヘビです。これに「しめすへん」を付けるとね、祭祀の【祀】になる。