白川静先生の漢字の世界

白川静先生の漢字の世界(2017年3月)

白川静先生のツイッター@sizukashirakawaからの抜粋です。

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*【造】の字形は霊に祈ることであり、それで【造(いた)る】「【造(まつ)る】の意があるが、それにこたえて祖霊の成し与えるものを【造(な)す】という。[記]における造の用字法が、すべて宮廟などの聖所を作ることに関しているのは、なお字の初義の性格をとどめているものといえよう。*国語の【ゆふ】は【よる】までの時間帯を含むものであるから【夕】【夜】【暮】【晩】の字を用いる。【あした】はその暗い時間を超えたそのあとの方の意で、朝と同時に明日の意となる。【夕】【昔】と同じく、祭事が夜中を通して行なわれたことから生れた語である。

*【弓】西周期の銘文にみえる冊命儀礼などに、彤弓(朱塗りの弓)彤矢・旅(りょ)弓(黒塗りの弓)旅矢などを賜与する例が多く、これらは儀礼に用いた。重要な儀礼の時には参加者によって競矢が行なわれ、それはその儀場の修祓を意味した。邪悪を祓うときには弾弦、すなわち弓弦を鳴らすこともあった。

3/24
*【朱】は生命力の永遠を象徴する。

*国語の【得る】は【賣る】と関係があるかも知れない。売ることが得るという結果をもたらすが、それは本来はあがなう行為であったと思われる。【買ふ】は【代(か)ふ】で交易であるが【うる】とは贖求の行為であり、その結果として災厄を免れ、幸いをえることができた。

*【いき(気・息)】呼吸すること。【生き】と同根の語。【氣(い)】を語根とするもので、【いき】【いぶき】【いのち】【いきほひ】【いかる】【いぶせし】など、みなそこから分出する。

3/19
*京都・桂に小さな家を求め、空地に書庫を立てた。その書庫が私の仕事場である。家の前には、三歩にして尽きる小庭がある。そこが家内の遊び場である。家内は花が好きで、狭いところに、足の踏み場もないほど鉢を並べ、朝晩、一葉一花の手入れをする。狭いところだが、それがそれぞれの天地である。

3/18
*【つま(夫・妻・嬬)】つまは【端(つま)】。ものの両側面をいう語である。それで一組のものが、たがいに相手を【わがつま】とよぶことができた。夫からは妻、妻からは夫をよぶ語で、のち妻の意に用いるようになった。新婚者の家も本家の端(つま)に作られ【つまや】という。

3/17
*【鹿】を神獣とする観念は殷周のとき以来のことであるが、ただ漢以後の【麟】の図様には、羽翼を加えて羽翼獣とする観念があり、これは西方の天馬など神獣の観念と合して生れたものと思われる。

*天智天皇の皇女四人が天智の弟の天武天皇の后になっておられる。兄の娘を弟が四方とも嫁にもらうというようなことは、普通の考え方からいいますと異常な状態ですね。しかし殷の系統法にこういう二つのクラスがあって、相互に交替しながら継承するというこの形をみますとね、それがだいたい了解できる。

3/5
* みそぎは、海辺で行なわれるのがもっとも祓いとして効果があるとされ、山間の祭事にも、「浜下り」したり、また社殿の近くに白沙をもって、潮花を用いたり、すべて清めには塩を用いる習俗を生んだ。

*【遊】という語のうちに、なにか異常なものという意味を含める用義法は、わが国の古代にもあった。貴人たちの行為がすべて【遊ばす】という動詞で表現されるのは、本来敬語法的な表現以上の意味をもつものであったからである。それはもと、神として行為すること、神としての状態にあることを意味した。

3/2
*はふり(祝)】けがれを祓い散らすもの。【放(ほふ)る】【屠(ほふ)る】と同根の語で、犠牲を供して、けがれを祓い清める職にあるもの、神官をいう。職制としては神主・禰宜に次ぐもので、もと地方の豪族に属していたものと思われる。

*【よ(四)】数の四。【いよいよ】と同根。【よつ】ともいう。【滿(み)つ】の上にさらに加える意。母音交替により、分裂して【や】【やつ】となる。

*遊ぶものが神であるということの証左はいくらでもあげることができるが、最も直接的には、たとえば女神がしばしば遊女とよばれていることを指摘するのみでも十分であろう。遊女とは出行する女神である。

3/1
*【療】正字は【疒+樂】に作り樂声。【楽】は鈴の形。治療の字には【療】の字が用いられるが【疒+樂】はその古い治療法を示す字である。【楽】は鈴の形で柄がありこれを振って鳴らす。古くシャーマンが巫医であった時代に鈴を振って病魔を祓った。のちそのような巫医的な方法が失われて【療】となる。

*刑法的な意味での刑罰というものは、古代にはなかった。およそ刑罰というものは、あやまって神のタブーを犯したものであるから、神に対して償いをすることでそれは清められるという、これが私は東アジア的な意味における罪の、一番原初の観念であったのではないかと思うのです。

*一般に【右】を正として尊び、【左】を邪は悪として卑しむ観念をもつ民族が多く、わが国の左右の観念はやや異例に属する。あるいは【ひだり】は日出と関係のある語で、日神の崇拝に連なるものであったかも知れない。

*漢字は中国で生まれたが、音訓両用に使いこなしたわが国では、それは同時に国字となった。国語と漢字と、この二つのものを習合し、融会したところに国語が成り、その思惟の世界も、表現の世界も、その中に生まれた。この不思議な融会の姿の中に、わが国の文化の多くの秘密がある。