変化するにちにち

言葉の次元を超える「振り」の表現

指揮者大野和士へのインタビュー、「演奏家は肉体的な動きと連動させて表現していく、さらに指揮者は「それを『音』ではなく『振り』で表現します」「コミュニケートの手段としての『振り』は」「もはや言葉の次元ではなく『人間であれば分かる』という次元まで落とし込む」、「精神的にも肉体的にも落とし込む」と。(2/4 東京新聞朝刊)

水曜日のヴェルレクでの青年の指揮に身体表現と書いたばかり、共時性だ!と弾む。しかし原初的喜びと短絡的すぎた。そこは身体に落とし込んだ上でのこと。この記事との出会いが演奏会前でよかった。***〈「人間であれば分かる」次元の「振り」〉に染み入る***

記事を昨日読んで、この気持ちって何だろう、思いだけが溢れる。内田樹に助けてもらおうと図書館へ。これが臭いぞ!とクンクン鼻を働かせて手に取った内田樹本の1冊。『街場のマンガ論』って初めてだ。あった!あった!表現がもどかしく感じるときに、いとも簡単に(ご本人にとっては苦しみかもしれませんね)代弁してくれる樹くん、すごい。おまけに私に直感力までつけてくださって?

よい記事を読んだあと、「何か言わずにいられない」「何か言っておかないと、わからないまま宙づりにされていて、気持ちが片づかない」「何かを言っても、それで記事を説明したことには少しもならないのだが、それでも、とりあえず…」(内田樹著『街場のマンガ論』171頁から、「映画」を「記事」に変えて引用しました)。