白川静先生の漢字の世界

白川静先生の漢字の世界(7月)

白川静先生のツイッター@sizukashirakawaより抜粋して転載しています。

7/31
*ことばは単なる音声やその連続ではなく、実体をもつ。神の名をよぶことは神をそこに招くことであり、死者の名を口にするときは、その霊をよぶ危険があるとされた。「ことだまの幸(さき)はふ」というのは、ひとりわが国の古代のみではなく、ことばの発達の過程にみられる一般的な事実である。

7/28
*【目】は呪力のあるものとされ、それに呪飾を加えて厭勝(まじない)とすることが古くから行なわれており…【省・徳】が目の上に加えているものはその呪飾である。そのような威力が呪飾による一時的なものでなく、その人に固有の内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは【徳】となる。

7/23
*否定の記号である【×】は、単純な否定に終わるものではなく、死を通して復活することの記号的象徴である。そこに一種の美学があった。【文・爽・爾】の諸字がもつ美意識的な賦彩のうちには、いずれもあふれるような生命感をただよわせている。それは古代の、みごとな巫術的秘儀の象徴である。

7/21
*遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。【游】は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。

7/17
*古代の人々にとって、死は再生であった。夜の森に、眼を光らせて出没する鳥獣は、姿をあらわすことを拒否する、霊の化身であった。時を定めて大挙して湖沼を訪れる鳥たちは、故郷を懐かしむ死者たちの、里帰りである。

*古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。

7/12
*【遊】という語のうちに、なにか異常なものという意味を含める用義法は、わが国の古代にもあった。貴人たちの行為がすべて【遊ばす】という動詞で表現されるのは、本来敬語法的な表現以上の意味をもつものであったからである。それはもと、神として行為すること、神としての状態にあることを意味した。

7/10
*喜びも悲しみも、ときには尽きがたい悔恨をもって、人は過去を背負う。そのような過去との対話の上に現在があり、また未来に連なる。そのひたすらに過去に向かうものが【懐ふ】であり、いくらか未来に連なるものが【憶ふ】である。

*ことばは手段にすぎない。しかしその手段にすぎないことばをはなれて、道を説くことができるであろうか。無限定なる道を説くには、概念の限定をこえなければならない。その概念を拒否する表現の手段が、寓言である。虚のみが、実をあらわしうるのである。

7/9
*ねがわくは【平】も【成】も、その字の初義のままに、【平】は手斧の素朴さを、【成】は神かけて祈るつつましさを、いつまでも保ちつづけてほしい。これらの字を、再び戦争のための字に用いることのないようにねがうのである(平成元年八月・新元号雑感)

7/8
*歌が個人の詠懐的な、自己内面の世界にとじこもる以前には、歌うこと、それに表現を与えることに何らかの呪的な性格を伴うのが、つねであった。

7/6
*【いき(気・息)】呼吸すること。【生き】と同根の語。【氣(い)】を語根とするもので、【いき】【いぶき】【いのち】【いきほひ】【いかる】【いぶせし】など、みなそこから分出する。

*【阝】は神の陟降する神梯。そこで祭るのであるから、【際】とは神人の際をいう字である。人のあるべき極限のところが【際】。仏教では、大地の極限のところを金輪際という。

7/4
*字源が見えるならば、漢字の世界が見えてくるはずである。従来、黒いかたまりのように見られていた漢字の一字一字が、本来の生気を得て蘇ってくるであろう。漢字は記号の世界から、象徴の世界にもどって、その生新な息吹きを回復するであろう。

*【わらふ(笑・咲・嗤・晒)】顔の緊張を解いて、声を立てて楽しむことをいう。【割る】と同根の語であろう。[万葉]などの歌にはみえない語である。類義語の【ゑむ】はにっこりする意。顔をほころばせるその表情をいい【笑ふ】は声を立てることをいう。

7/1
*ほんとうはグローバルなものはそれぞれの地域性が確立された上で、お互いの理解の上に一種の通時性、時代的な共通の理解というものが生まれて、初めてグローバルである。