変化するにちにち

お寺、みたび寒桜、ふりかえる

温泉で温まったからだはこんなにも違うのか、昨日のことなのに。寒いけど身体が違う、柔らかさが感じられて気持ちよさがある。それまでは固く、ごろごろ固まってしまったものをブロックごとに粗くくっつけたような感覚。
「身体を割る」と内田樹は言う。細かく割れるほどいいと。いま細かく割れている感覚。ずっと「樹くん」の「身体を割る」感覚がなかなかつかめなかったが、こういうことかと今、寒さを通して実感する。

朝、道の駅へ。風が強い。海が見えるまえに波、風の音に囲まれる。
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今日は永代経法要?があると親子ラジオで聞いていた。母の代理として行く。いとこが迎えに来てくれるという。電話で母が出た。
「え、Mさんな、いま代わっで待っちゃい」
とわたしに代わる。
「母ちゃんな、しっかいしとらっねぇ(しっかりしておられるね)」
「よう、記憶力以外は進化しとららい(進化しておられるよ)」

お寺では、祖父の家の近所の方ふたり、AさんとHi子おばん(91歳?)に出会う。
同級生のKa子さんもいる、このあいだ線路脇を歩いていて、はんころんだ(転んだ)人、彼女と話す。
「おいも線路沿いを行ごち思で、橋ん手前のガードをくぐって、寒桜の見ゆっとごいづい、行だっじゃいどん、わがらんじん、ひっかえせだ(寒桜の見えるところまで行ったけど、分からずひきかえした)」
「あらー、そん桜んとごいが、んーのがいじゃったどごい(その桜のところが、わたしの家だったのに)」
桜の横の道を行けば線路脇に出るのだという。残念。

話を楽しんで、法要のはじまりを静かに待つ。その前に先生がいらっしゃる。慌てて挨拶。先生が、母は寝込んでいるのかと思っていたら、元気よく散歩しているところを通りがかりに見かけたとおっしゃる。そうです、口も身体も、記憶力以外はものすごく元気なのです。

お寺に行く前は、気乗り半分だったが、寝るまえに昼間の雰囲気に浸る。ふるさとに帰るたびに自分がここに浸透する、いや逆で自然がわたしに入ってくるのかもしれない。その深さが回を重ねるごとに増す。自然とわたしとの境目がゆるくなる。溶ける。

帰省の機会は「わが計いにあらず」、与えられたものである。何によってか。それは一つではなく諸々がかみあっているのだろうけど、母の存在が機としてあることはたしか。
「なごまでおってくれで、まごでよがった、ごぐろじゃった(長く居てくれてまことに良かった、ご苦労でした)」「お陰さまじゃった」
と、ここ一週間近く日に何回も繰り返す。明日帰ると思うとしんみりくる。