変化するにちにち

梵鐘のようにひびく「からだ」

お寺の鐘状態のからだが何日も続いている。鐘がぼーーんと鳴り響いている、静かに低く心地よく鳴ってはいるが、響きが広がるばかりで、収斂してくれそうな気配を微塵も感じられない。

お寺の鐘の響きは、手元の竹内敏晴氏の本の言葉、低い、太い声として聞こえてくる、ぼわ〜んと広がるだけの声、言葉だ。竹内氏の実際の声は知らないが、イメージが鮮明である。収斂してくれないから、鎮まらず、書けない。ということだけは書ける(ようになった)。

今朝の東京新聞、「松風庵主」の運勢欄
「読書万巻にて初めて神に通ず。大いに読書して心地開く」

ここ数日重いことばに息詰まるようだったので、何日かぶりで、松風庵主の運勢欄を見る。何かが「開かれた」と感じる。知る人ぞ知る「松風庵主」の言葉。確かに「言葉が心地よい」。いつも自分に都合のいいものだけを受け取り、ほかは捨てている。