変化するにちにち

「骨がむりむり言う如くある」祖母

祖母は私が10歳のときに亡くなった。「ばあちゃん」と呼んで大好きだった。祖父に似た気性の母と違い、穏やかでゆっくりやさしい物言いをした。祖母との思い出は、特別なことは何もないが、戦死した伯父のこと、病死した二人の幼い子のことを悲しむ言葉を、母を通して受け取っている。
何回も同じことを書いてしまうが「太なって(大きくなって)死んだ子ほど骨がむりむり言ごだっ(言う如くある)」は、帰ると毎日のように母が繰り返すので、辞書の言葉のように私にとっては当たり前で、直接私に語られたような感覚としてある。大きくなって死んだ子とは戦死した伯父ののことだ。

「むりむり」という擬音語が痛みとしてどこまで伝わり得るのか分からない。私は、例えば木の枝を鋸でぎーぎー(ごりごり?)切って、あともう少しという程度にくっついている枝を、手で折る、捻って引きちぎる時などにたてる音(ばりばり、ぎーぎー)のようなものかと想像してみる、が、いまいち感覚としてよく分からない。

学校に上がる前だったかと思うが、母が帰り着くなり雷鳴を、「帰り道に雷がわりわり鳴って恐ろしかった」と興奮状態で話したことがあった。「わりわり」の形容が可笑しかったので兄弟で笑い合ったことがある。が、このときの「わりわり」と、祖母の言う「むりむり」には、「捻れる」「軋む」ような共通の何かがありそうな気がする。

表現し得ていないが、「好日」2015・8月号より
《詠う》《戦死した伯父の写真の前に立つ「ばあちゃんは骨がぎーぎー軋む」》

毎年なんとかして祖父祖母を歌いたいと思う。
祖母の「骨がむりむり言う」が、「喉に刺さった小骨」のようにいつも私にある。