変化するにちにち, 歌う

声が生まれる◇表現の醍醐味

渋谷の「呼吸と発声研究所」でのパフォーマンスの会に出た。参加者それぞれが歌、朗読、その他の表現なんでも持ち寄り互いに批評する場である。なんだか短歌の批評会と同じだ。違うのは「今心が疲れているから良い点だけを言ってください」「悪いところでも何でも言って」「何も言わないでください」などなど、その時の自分の感情、精神状態をみて自分で決めるという、何でもありの開かれたやり方である。

私は、好きな短編(2頁のみの「眼鏡」というユダヤ笑話)を朗読した。Tさんが短歌の朗読を聞きたい…と言う。短歌の朗読?言われたのも初めて…想像さえしたことがない、出来るはずがないと思ってやらなかった。

ところが…である、ここからが面白いのです(強調です!)。順番がまわって来たTさんが歩きながら般若心経を唱える即興をやってしまった。強烈!あ…、日本の文化…、あ、あの時……突然、自作の一首が思い出された、表現できるかも知れない、やってみたいという思いが湧く。眠っていた感情のどこかをピンポイントで刺され何かが動いたのだろう。

1985年は英国にいた。留学といえば留学だが実際は日本からの逃避に近い。12月、クラスメートは皆、国の家族のもとに帰ってクリスマスを過ごす。私は子と二人、キリスト教文化圏の中に、しんしんとした孤独の中にいた。

十年近く前「オンブラ・マイ・フ」の短い歌詞に出会った。

「私の好きなスズカケの木の
   柔らかく美しい葉よ、………
  ………
   樹木の蔭で、これほどいとおしく美しいものはなかった」

1985年とこの詞が繋がって一首が生まれた。

《英国に異教徒として十二月の孤独ほど「美しいものはなかった」》

彼女の即興に刺されて、何かが動いて……、これを朗読したいと思った。あの時の思いをなんとか表現したい、思いに集中したら声になった。一瞬何が起こったのかわからなかった、声がまずあった。何かに導かれて身体全体が声になるという感覚。朗読後の批評は、これこそ私自身の声というもの、つまり、内臓から生まれた偽りのない声ということかと思う。

声を「生む」のではなく、声が「生まれる」、そして「刺激」という言葉、まさに刺し刺されて新しい、予想もしなかった何かが生まれたりする。これぞ表現の醍醐味ではないか。こんな体験は初めてだ。この体験はきちんと言葉に残しておきたいと思った。