変化するにちにち

会津只見へ歌碑を訪ねる旅(5/27,28)

「好日」東京東京支社から5人、「行こうよ」ではなく、「行きたいね」「行きたいね」と決まってしまった。

上越新幹線から小出経由、各駅停車で山、川を見ながらではなく、山を抜けてトンネルをくぐり、澄んだ速い流れ、汚れのない緑、長いトンネルをまた潜り。

新潟県の大白川駅の次が只見駅だが30分近くかかるらしい。走っても走っても人家はなく山の中、そしてときどき急流が現れる。このまま現実が閉じてしまうよな不安感さえ覚えてトンネルも5分?10分以上?走っても走ってもトンネルの中、後でわかったが、「六十里越え」と言うらしい。トンネルを抜けると、 ポッと明るく人家が見えはじめる、昼間であるけど「ポッと明るく」の感、安心する。只見だ!ここが只見かぁ、……着いたぁ…。

好日のかつてあった只見支社と繋がりの深かった矢嶋歓一氏(当時、好日の編集委員)の歌碑を田子倉ダム湖畔に訪ねることが今回の旅の目的。

最初は、歌碑が当時(昭和44年)のまま果たして存在するのかも分からない、ネット検索しても確信が持てず電話した只見町役場の方が、「調べて折り返し電話します」おっしゃって、そして「当時、歌碑除幕式に関わった方がいるようですよ」と、「富士園芸店」の電話番号を教えてくださったのが事の始まり。形容し難い人の心の奥深さぬくもり。

駅に三名の方が出迎えてくださる(6人乗りの車1台、普通車1台で)、そのまま田子倉ダム湖畔の歌碑へ。

こちらの方たちは名で呼び合うようだ。紹介する時も、つねおさん、とみこさん、ゆきこさんだった。わが古里と同じ、そして年上の人を敬って例えば、90歳近くでもようこ姉(あね)さん、と血のつながりに関わらずそう呼ぶ、これも同じ。嬉しくなった。日本の田舎に残る良き文化、通底するものに感動する。

只見に着くまでは山の中、トンネル、またはこのような川、人家は皆無だったような気がする。⬇️

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ダムにより水没する村の人たちが、これだけはとの思いで残したという八幡様。歌碑のある所から歩いてその八幡様に行く途中の崖下に咲いていた朴。この朴の白、葉の色が只見の空気感の象徴のように思えた。そしてその感覚は今も変わらない。⬇️

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歌碑から八幡さまへ歩く途中(だったと思う)⬇️

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八幡様の境内より⬇️

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翌朝、出発前にうろうろしていた時、懐かしい気持ちのよい風景に出逢う。小さいころの畑の中にいるような、懐かしいでは収まりきれない気持ちのよい風景、風景って空気、空間のあってこそなのか、本当に懐かしい!からだがこのまま溶けてしまいそう。耕すおじいさんが祖父に重なる。駅の裏?の社に続く道、踏切あたりで撮る。カメラを向けておじいさんに叱られるのではとヒヤヒヤしながら。タップするとおじいさんが鮮明に現れます(希望)。おじいさん、否、◯◯兄(あん)さん(と呼ぶのでしょうか?)ありがとうございました!私と同じ名のゆきさん!この方をご存知でしたらよろしくお伝えください。只見の皆さま!ありがとうございました❗️⬇️

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今少しでも書いておかないと、実家のある鹿児島の空気に浸るうちに只見の身体感覚が消えて書けなくなってしまう、そんな気がして大雑把でもなんでも構わず残すことにした。