変化するにちにち, 母とともに(介護帰省・鹿児島)

母に頼まれて報恩講へ

先週従姉妹と行ったのとは別の寺に、今日は母に頼まれて行った。昔は人が多すぎたのか村に同じ宗派の寺が二つあり、今日行ったのは小さい頃よく行っていた馴染みの寺。受付に「御仏前」を持っていくとやはり先生が母のことを訊ねて下さる。従兄弟である「竹林の里・平和の里」の飲兵衛も受付に座っていた。いつもより立派に見える。

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・写真はいとこ自作の「竹林の里・平和の里」、家の横にあって、さらに先にはバーベキュー小屋もあるという(写真を撮った時は知らなかった)、この右下に母が散歩がてらに行く墓がある。いとこの家は墓を更に登った丘の上にある。

お寺に知る人のいる温もり
顔見知りのおばん(おばさん)に気付いて挨拶に行くと、「母ちゃんな(は)いけんしとらっと(どうしていらっしゃいますか)」と聞いて下さる。隣の席の方に母の名を言うとすぐに「まぁー!」と言ってもらって距離感が縮まる。同級生も来ている。どこから来るのか柔らかで温かい。

笑いは大音量
「お説教」と村の人たちは言うが、聞くほうは頷くという程度のものではない、「そいじゃっ」(そうです)、「まごで」(本当に)などと相槌の真剣で声の大きいこと、そして「あーっはっはぁー!」と大音量で笑う。それに乗せられて話す方も「定位置」を飛び出し歩き出す、これこそコミュニケーション。「お説教」もうまいけど、聞く方の心の傾斜、ひたむきさが感じ取れる。そのやり取りの中に、懐かしさの中に身を置くというより私は「よそもの」として、その「場」の力に圧倒されっぱなし。否やはり懐かしい、祖父の時代にタイムスリップさせてもらった。

そう言えば先週従姉妹より「昨日は楽しかったね」のメールが翌日来た。「お寺で、楽しい」の体感、いいなあと感じる。彼女はこの10年で姉、母、兄と喪っている。

この土地でお寺は非日常で笑える、ひと息つけるところなのだ、女たちにとっては特に。