母とともに(介護帰省・鹿児島)

祖父と母(3)

母の言葉が沁み込んで
6月に20日間近く(JRの往復割引が18日以内)実家で母と過ごした。もちろん介護のため。認知症でもまだ朝夕は(少なくとも私がいる間は)お経をあげていた。いつだったか読経が終わったあと突然「とど、かが、とうちゃん!おおきに!」と叫んだ。(とど→お父さん)(かが→お母さん)(とうちゃん→夫)

感極まったのだろう。自分が「この様になってしまった」との思いもあるのだろう。日に何回かふっとため息のように「こいなってしもで」と言う。

介護と言っても市から日に二回弁当を配達してもらえるし週二回のデイサービスもあるので三度三度ご飯を作る必要はない。味噌汁と他一品あればよかったので時間的にはゆったりしていた。土鍋はないけどみそ汁は毎日、昆布と椎茸のだし。

母は、今日は誰の日、今日は七高僧の誰の日と言っては精進する。昆布椎茸なのでおいしいのは当然であるが、煮干しを使う習慣のある母は精進する日の味噌汁は水のみで出しは取らず作っていたのだろうか、私が作ったものをなかなか信じてもらえなかった。強い口調で反論してしまったことも思い出される。

セラピー受けて少しの安心とわずかの不安を抱えて行ったが、結果として「爽快!」これに尽きる。行く前に夢を見た。実家の草原の様な庭に立ってエレベータを待ちながら兄弟で笑あっている爽やかな夢。「安心して帰って下さい、きっと夢のとおり、イメージどおりになりますよ」とガンダーリ先生の言葉どおりだ。

家の周りも、近所の方たちも、そして何より母との関係も。私が変わって、それを感じ取って?母もゆったり。三月に聞いた罵声も、「娘は役に立たない」なども言われず、3月とはまるで違って穏やか。私もこの家を初めて、何と気持ちの良い空気の良い所だろうと感じられた。今まで実家では少し緊張していたから。

窓を開けると庭、庭の向こうに田んぼ、川の流れは立ち上がらないと見えないが山があって眺めがよく静か。「こんなにいい所に住めて本当に幸せ!有り難い人生だった!」と日に何回も何回も繰り返した。祖父の話、祖母の六人姉妹の話、伯母たちなどなど、もうこの世にいない人たちの事ばかり話した。母の毎日の言葉が今私の身体にあって、時折現れる。戦死した伯父のため千鳥ヶ淵に行くのも、祖父母、母の悲しみが入り込んでいるからだと思う。

毎年8月は一年で最も故郷を思う、それと同時に精神、身体が静かにある。6日、9日、15日に想像する戦争が祖父母の悲しみに思いを馳せふるさとに繋がる。故郷がより遠くに感じられる月でもあり、少しだけセンチメンタルになる。今日で八月も終わる。9月はすこし元気になるに違いない。